セレスタン第二王子の後悔とリオネル・フルニエの後始末2
「写しですが、たしかに正式なものです」
近くにいた事務官に書類を確認させると間違いないという。
国の許可を得て権利を行使した結果、二人は姓を持たないただのエリックとオデットになった。
共に珍しい名ではないから同じ名前を持つ人間は世の中に山ほどいる。民に紛れてしまえば、何の手がかりもなく探し出すのは容易ではない。
そうくるか、内心で王は歯噛みした。
関係機関の担当者は悪評を信じていたから疑いもせずに許可を出したのだろう。悪評まみれだった二人は、逆に悪評を利用したのだ。視線で側近に指示を出すと青ざめた事務官は事実確認をするために謁見の間を出て行く。その背中を見送ってリオネルはほんの少しだけ口角を上げた。
そして呆然とした顔の第二王子殿下と視線を合わせる。
「二人が言うには、真実の愛に目覚めたそうですよ」
「は?」
「傷つけられた者同士が出会い、恋に落ちる。まるで若い女性が好む恋物語のようではありませんか!」
どこまでも真面目な顔をしながらリオネルは腹の底では大笑いをしていた。
兄にも義姉にも幸せになる権利がある。
彼らは自分達の幸せのために二人の選択を認めたくないというだけだ。
「違う、彼女はリュシエンヌだ。リュシエンヌがわたしを捨てるわけがない!」
我に返ったセレスタンはなりふりかまわず叫んだ。
かつて頬を染めて、言葉を交わし、少しずつ愛を深めていった。あれだけ時間をかけて愛情を注いできたのだから髪の色は変わっても中身は変わらないはずだ。
すると視線を合わせたまま、リオネル・フルニエは気の毒そうな顔で首をかしげた。
「失礼ですが、それはどちらのリュシエンヌ様ですか?」
一瞬、質問の意図を測りかねたけれど、正確に意味を理解したセレスタンは言葉に詰まった。
本物のリュシエンヌか、それともオデットが成りすましたリュシエンヌか。そういえば二人はいつ入れ替わったのだろうか。まさかお茶会のときにはもう、そう考えると嫌な予感が増す。
まさかわたしがずっと愛をささやいてきたのは。
そう思った途端に吐き気がして、頭が真っ白になった。
リオネル・フルニエは憐れむような眼差しを第二王子殿下に向ける。
「申し訳ありませんが我々の認識では当家に嫁いだのはオデット様。この期に及んで別人だと言われ、逃した責任を押しつけられても困ります。婚約者ですら入れ替わっていたことに気がつかないものを、初めてお目にかかる我々に区別がつくと思われますか? それをなぜ引き止めないのかと問われても、さすがに無理が過ぎるというものです」
もっともな言い分だと誰もが思った。
セレスタンは遠回しに自分が嫌味を言われているのはわかったが言い返すことができない。
たった一度とはいえ、お茶会に突撃したリュシエンヌとオデットの二人が並んだところに出くわしているのは自分だけだから。自分だけは本物と偽者の区別がつかねばならなかった。
それでもリュシエンヌは生まれたときからセレスタンのものと決まっている。
あきらめてなるものか!
さらに問い詰めようと口を開いたセレスタンを父は手振りで抑えた。
「たしかに商会長の言うことももっともだ。だから我々は婚姻そのものを無効にしたいと考えている」
「と申しますと?」
「オデットと思っていた娘が、実はリュシエンヌだとわかった。つまり人違いである。だから王命によりエリック・フルニエとオデット・オベールの結婚に関する記録を抹消することにした。もちろん除籍後であろうと日付を遡って取り消すから有効である」
「何と!」
離婚ではなく、結婚した事実すらなかったものに。
リオネルの表情が青ざめる。呆然としたまま彼は衣の端を握った。
「オベール家の陰謀に巻き込まれただけでフルニエ商会は被害者。成りすましのこともあるし、罪に問うようなことはしない。賠償の代わりに王家からフルニエ商会に便宜を図ると約束する。だから商会長には忘れてほしいのだ」
オベール家からは、誰もフルニエ家には嫁がなかった。
「たとえ紙切れ一枚であろうとリュシエンヌが他家に嫁いだという証拠を残すわけにはいかないのでな。速やかに婚姻届も破棄する予定だ。理解して、協力してほしい」
「承知いたしました」
つまり関係者への口止めか。
結婚式もなし、披露宴もなし。異例の事態がこのことに限れば功を奏した。
「ああ、それから二人が暮らしていたという住居を捜査する。リュシエンヌが逃げた行先の手がかりがほしいのでな。フルニエ家の持ち家と聞いているがかまわないな?」
「かしこまりました。商会員に家まで案内させましょう」
リオネルが同行した商会員に視線を送ると決定事項とばかりに騎士が忙しなく彼を追い立てる。
そんなに惜しむのならば、初めから手放さねばよかったものを。
「リュシエンヌを何としてでも見つけ出し、後継者として再びオベール家に迎え入れる。その後、予定どおりにセレスタンと結婚させて家を継がせれば全部元どおりだ」
王のつぶやきを拾ったリオネルは表情を消した。
あぶない、うっかり余計なことを言ってしまいそうだ。
「もう退出してよいぞ。ご苦労だった。後始末のこと、くれぐれも頼んだぞ?」
「承知いたしました」
短く応じて背を向けるとリオネルは静かに退出する。
――――
リオネルは兵士に連れられて手続きを済ませると裏口の停車場に停めてあったフルニエ商会の馬車に乗った。周囲を十分に確認して安堵したように深々と息を吐く。
「……まさか義姉さんの予想した脚本どおりに話が進むとは思わなかったよ」
婚姻記録抹消の場面は半信半疑であったけれど、実際そうなったから逆にうろたえてしまった。リオネルは数週間前に兄エリックから脚本を渡されたときのことを思い出す。
「アデライドがこれを渡してほしいって」
「何、これ?ー」
「本人曰く、これから起こるだろうフルニエ商会の危機的状況を予想して書いた脚本だそうだ」
パラパラとめくって内容を読んだリオネルは青ざめる。
「これ、本気?」
「信じるも信じないもリオネル次第でいいとアデライドは言っていた」
渡された脚本は、この文章から始まっている。
――――大前提として、フルニエ商会は嫁にきたのはオデットだったと主張すること。リュシエンヌと認識していたと誤解されないように最大限の注意を払うこと。
そのほかに起こりうる状況に合わせて取るべき行動、根回しに、王城での受け答えまで。要点を踏まえ具体的だし十分にありそうな気もするが、内容が飛躍しすぎていてにわかには信じがたい。
脚本どおりに物事が動けば最終的に商会は救われるが、本当に信じてもいいのだろうか。
迷うリオネルにエリックは真面目な顔をした。
「俺は信じることを推奨する」
「どうだろう、にわかには信じがたいのだけれど」
「それと読み込んで覚えたら脚本は燃やしてほしいそうだ。見つかって不利に働くと困るから、と」
そこまでするほどのものなのか。一瞬そう思ったけれど、たしかに読めば読むほど危機感を覚えた。
もし、このとおりに物事が進めばまさに予言書だ。先を見通す勘の良さ、これもまたオベール公爵家の血筋がもたらす恩恵なのか。
それでも城に呼ばれるまで半信半疑だったし、当たるのであれば恐ろしいと思っていたが。
「当たったなんてものじゃない、大当たりだ」
内容にはいくつか分岐があったから一本道ではなかったけれど、終わってみれば質問も回答も全部想定内だった。
さすが義姉さん、あのふわっとした見た目に騙されるけれどけっこうな策略家なんだな。
彼女は恐ろしい、裏切るものにはどこまでも冷徹になれる。
けれどその代わり懐に入れた人間にはとことん甘く優しい。だから彼女を知る者は裏切ることはなく、信頼に応えたいとそう思わせるのだ。
この冷徹さと慈悲こそ、まさに英雄の血を引く証。
王家は惜しい人を手放したものだな。
さて、ここからが後始末の本番だ。義姉さんの脚本には、船が沈む前に降りるという場面があった。
「リオ!」
「アリー!」
フルニエ商会に戻ると店の前にアリスが待っていた。どちらからともなく駆け寄って抱きしめる。安堵したように、彼女は深く息を吐いた。
アリスは歴史あるクレムリュー商会の娘でリオネルのかけがえのない婚約者だ。
甘えるように抱きついたまま、アリスはリオネルの耳元でささやく。
「脚本どおりだった?」
「ああ、いくつか分岐を曲がったが終幕までは一直線だった」
「すごいわね、義兄さんの奥様って」
――――もう一つ、アデライドから伝言がある。アリスに脚本のことを話してもいいそうだ。
含みのあるエリックの言葉を聞いて、リオネルだけでなく話を聞いたアリスも即座に理解した。
これは踏み絵だ、アリスとクレムリュー商会が信頼できるかをふるいにかける試金石。商人であれば、このくらいの機微は読み取れるだろうという試しだ。
おっかないけれど、終わってみればこのうえもなく頼もしい。
「商会長の判断は?」
「話に乗るって。もともと怪しいと思っていたらしいの、オベール家のことを。新規事業も好調だったけれど、このところ業績が頭打ちだし精細を欠いているそうよ。何か内部であったのかしらね?」
クレムリュー商会はオベール家の領地モルタナの新規事業に出資していた。だが近く契約を打ち切り、フルニエ商会同様、他国の拠点に資産と事業を移して国を出る準備を進めている。
「二日後には出発できるわ」
「わたしもだ。それにしても動きが早いね、君の義父さん」
「ここだけの話、辺境伯軍が負けたそうよ。しかもすでに二回負けているって」
「ああ、そういうことか。さすがだ、情報が早い」
その情報はリオネルもつかんだばかりだというのに。
グランドヴァローム王国の軍はどのような不利な状況で相手が大軍であっても負け知らずだったのが、一度ならず二度も小競り合い程度で負けている。
辺境伯領では緘口令が引かれているそうだが、国民に知れるのも時間の問題だろう。
「それに前々からエリック義兄さんの扱いを見てこの国には先がないと思っていたらしいわ」
「同じ商人でも兄さんに対する評価がこれだけ違うのも珍しいよね」
父や母と違い、クレムリュー商会の商会長と奥様はエリックを評価していた。
才能ある人間が生きづらくて逃げ出すような国に利益と未来はない。彼らの言葉にはリオネルも大いに賛同する。リオネルはアリスの頬に軽く口づけを落とした。
「出発は予定どおり二日後の早朝。万が一のことを考えて、義父さんと義母さんとは別のルートで出発しよう」
「リオネル、あなたのお父様とお母様は?」
「……聞く耳を持ってくれなかった。だから置いていく」
彼らは選んだのだ。この国と共に沈むことを。
「国は便宜を図ってくれると約束してくれたからね。敵対する商会から成りすましの件をこれ以上探られないよう、ほとぼりを冷ますという名目でフルニエ商会全員分の旅券を発給してもらった。だから商会員や彼らの家族も明日にはこの国を退去する予定だ。彼らとは他国の拠点で落ち合うと伝えて」
「そちらに便乗させてもらって助かったわ。クレムリュー商会の商会員もほとんどが出国済みよ。残された時間は少ないから有効活用しないとね」
アリスはそっとリオネルを抱きしめた。
「つらいわね、大切なものを捨てていくのは」
「でも全部失ったところで、一から作り直すのも楽しいと思わない?」
「ふふ、そうね。あなたとわたしならきっとできるわ」
だからいらないものは全部捨てていくの。
――――
同日、同時刻。貴人牢に足音が響く。音に気づいて、煤けたような赤茶色の髪が振り向いた。
「君がオデット・オベールだったのか」
「ええそうよ、やっと気がついたのね」
リュシエンヌによく似た顔が、ほっとしたように笑った。
セレスタンは鉄格子を挟んでオデットと向かい合う。
実際に見るまでは信じられなかったが。
黄金は欠片もなく、ここまで劇的に見た目が変わればもはや別人としか思えない。
「なぜリュシエンヌを騙った」
「お父様にそうしろと言われたから。それに入れ替わっても誰も気がつかないし、別に問題なかったでしょう」
問題しかないというのに。驚くほど悪びれた様子はなかった。
「国全体を騙したのに悪いことをしたという認識はないようだね」
「ないわ。騙されるほうが悪いのよ」
「そこまでしてオベールの黄金がほしかったということ?」
「そうでもないわ。初めはそんな深い意図はなかったのよ。誕生日の贈り物にほしいものを聞かれたからオベールの黄金がほしいと答えたの。そうしたらお父様がくれた、それだけよ」
オデットだってそこまでして金の髪がほしいわけではなかった。
本当にほしかったのはそれに付随してくる別のものだ。
「公爵令嬢という地位、後継者という名誉、潤沢な資金。それにあなたよ、セレスタン様」
心底愛おしいという顔でオデットは笑った。
「わたし、ようやく気がついたの。あなたが運命の人よ、だからわたしを牢から出してちょうだい」
「オデット、君は自分が何をしたのかわかって言っているのか?」
「もちろん。でも牢から出してくれなければいつものように愛を交わすこともできないでしょう?」
ああやはり。妖艶に笑った顔は、セレスタンの知るリュシエンヌのものだった。
そのことに深く絶望する。
セレスタンは鉄格子に強く拳を叩きつけた。
「わたしを騙して楽しかったか?」
「いいえ、ちっとも。あなた、わたしを通じてずっとリュシエンヌを愛していたでしょう? 一度もわたしを見てくれなかった。だからね、わたしもずっと思っていたの」
お願い、わたしを愛さないでと。
「だったらそう言えばよかった。もっと前に罪を自白していれば罰が軽く済んだかもしれないのに」
「いやよ、それではあなたとリュシエンヌは幸せになってしまうでしょう? 瓜二つ、同じ顔をしているのに。わたしが不幸であの子だけが幸せになるなんて間違っている」
同じものが与えられた、だからこそ差がつくことが許せない。
揃って幸せになれないのなら、いっそどちらも不幸に。
「それが平等というものよ」
つぶやいて、オデットは瞳を伏せる。
まるで途方に暮れた少女のような顔だ。
「愛おしいセレス様、よく見てください。髪の色は違っても同じ顔です。だったらわたしを選べばいいではありませんか。リュシエンヌの代わりに、わたしがあなたを愛します」
だから、オデットとしてわたしを愛して。
そんなことを、彼女はよく知る表情で甘くささやいた。
乙女の切なる願いにセレスタンは沈黙する。
言っている意味がわからない。セレスタンが求めているのはリュシエンヌであり、オベールの黄金で、リュドヴィック・オベールの血だ。外見がどれだけ似ていようが意味はないのに。
けれどオデットは自分がリュシエンヌの代わりになれると信じている。その虚ろな表情にセレスタンはようやく気がついた。
もはや自分がオデットなのか、リュシエンヌなのか区別がついていないのかもしれない。
「君は狂っている」
「そうかしら、オベール家に引き取られたときからこんな感じだからよくわからないわ」
「まさか、そんな」
「驚くのはいまさらよ。言っておきますけれど、オベール家の人間は誰もが狂っているの」
あの、リュシエンヌでさえも。
不幸なはずなのに、幸せという顔で笑ったオデットは優美な仕草で礼の姿勢をとった。かける時間も角度も研ぎ澄まされていて、今の彼女は誰よりも美しい。
そのことがセレスタンには何よりも恐ろしかった。
自分までおかしくなりそうな錯覚に陥って。
「わたしの愛おしい人。ここでお待ちしていますから、きっと迎えにきてくださいね」
まさに気狂い姫。狂気に囚われているはずなのに、背筋がゾッとするほど何もかもが美しかった。
牢を出たセレスタンはオベール家へと戻った。
ひっそりと静まり返った廊下を執務室へと歩いていく。
オデットはもともと狂っていたのか……それともオベール家によって狂わされた?
もしかしたら、いつか自分も。
じわじわと恐怖が足元から這い上がってくる。セレスタンは執務室の椅子に座っても、もはや何から手をつけたらいいかさえわからずにいた。
そして三日後。事前の通告もなく隣国の大軍が国境を越えて、グランドヴァローム王国に侵攻した。