エリック・フルニエの懺悔とアデライドの決断
主人のいないオベール家は今日も静まり返っている。
リュシエンヌはノックをして扉を開けると侍女長室の机に手紙を置いた。
「失礼します、こちらに手紙を置かせていただきますので添削をよろしくお願いします」
「わかったわ」
報告書を書いているらしい彼女は顔を上げることなく応じる。置いた手紙はリュシエンヌが練習用に書いたもので、ここまで何通目になるか覚えていないくらいだった。そうなるのもあたりまえのことで、手紙を出せば必ず次の日には返事と次回の課題が与えられる。
多忙のはずなのに、筆まめで面倒見のいい人だわ。おかげでリュシエンヌの手紙の書き方が一気に上達した。
一礼して部屋を出ると、廊下の端から作業の合間に侍女達の会話が聞こえる。
「オベール家は一体どうなるのかしら?」
「公爵家に勤められるなんて運が良いと思っていたのに、蓋を開けてみたらとんでもない家だったわ」
「本当よね、当主は少し前に城へ召喚されてからは音沙汰なし。次期当主のリュシエンヌ様も追うようにしてセレスタン様に城へ連れて行かれてしまった。残っているのはメラニー様だけれど、あの方は元男爵令嬢で公爵家の家内を差配する能力はないし、領地運営もできないから、今は全部他人に任せて部屋に引きこもっているらしいわ」
「あと残されたのはオベール家の気狂い姫、でもあの方はこの家にもういないでしょう?」
「そういえばメラニー様からオデットはいないと答えろと指示されているけれど。本当はどこに行ったのかしら?」
……もう、この世にはいないのかもね。
まことしやかに一人の侍女がささやいた。ちょうどそのとき、リュシエンヌの視線が彼女達と交差する。けれど二人はすぐに興味を失い視線をそらした。
リュシエンヌはクスッと笑う。
あなた達がオデットと呼ぶ娘は目の前にいるのに、皮肉なことよね。
最近のオベール公爵家は使用人の入れ替わりが激しくて、長く続かず、すぐに辞めていく。そのせいでアデライドがかつてオデットと呼ばれていたことを知る人間はほとんどいなくなっていた。
しかもそれだけでなく、残っている使用人も何かを恐れるように口をつぐんでいる。
一度、理由を聞いてみたらわたしに呪われるからとか言っていた。
呪いだなんて、悪役として格が上がったわ!
想像したらおかしくなって思わず笑ってしまったのよね。
そうしたらなぜか笑うアデライドの顔を見て、彼女もそのあとすぐに辞めていった。
「とはいえ人の口に戸は立てられない。辞めていった使用人からオデットの存在がバレるのも時間の問題でしょう」
何よりもオベール公爵家そのものに王家の調査が入るのは確実だ。
悪役であるオデットが実は侍女として働いていたとわかれば王家にとっては好都合。証拠をでっち上げて罪をなすりつけてくるのは確実だ。
オベール家とはそこまでしてでも守りたいものなのだ、王家にとって。
だからそうなる前に逃げよう。
けれど逃げるということは、同時にエリック様と離れることを意味する。
それが契約だもの、仕方ないことだわ。
けれどいざそのときが近づくと、こんなにも離れがたい。
リュシエンヌにとってエリック様は救い主のような人だったから。
……でも彼にとっては、そうではない。
むしろリュシエンヌは面倒ごとと一緒に押しつけられた妻だ。いなくなればホッとするはず。
胸の奥にある小さな痛みには気づかないふりをして、いつ切り出すか考えていた矢先のことだった。
その日は珍しく二人揃って休日だった。
リュシエンヌだけでなく、エリック様の予定もないということで二人で過ごそうと決めていたのだ。朝からどこかソワソワしていた彼が真剣な表情で切り出した。
「移民申請が認められた。準備が整ったらこの国を出て、二度と戻らないつもりだ」
「そう、ですか」
ついにこの日が。
幸せな時間ほど呆気なく終わるもの、それを知っているリュシエンヌは瞳を伏せた。
別れが近いことをわかっていたくせに、この期に及んでもあきらめきれないわたしはどうかしている。
それでもさよならを言わなくては。
せっかく機会を与えてもらったのだ、一人でも前に進むの。
覚悟が揺らがないようにリュシエンヌは固く手を握った、そのときだ。
「もし嫌でなければ採寸をさせてほしい。君のために服を作ってみたいんだ」
「服をですか?」
「そうだ、君にわたしがデザインした服を贈りたい」
唐突で、思いもよらない提案にリュシエンヌは目を丸くした。それからじわじわと頬を赤らめる。
ああうれしい、たとえ別れのときが近いとしても素敵な思い出ができそう。
柔らかく微笑んでリュシエンヌはエリック様の緊張で冷え切った手を握り返した。
そっと手を引き寄せて視線を合わせる。
「嫌ではありません、うれしいです」
「アデライド」
ずっとうらやましいと思っていたのだ、エリック様の泉や女神になれる女性達を。
厄介ごとのタネにしかならない自分が選ばれることなどないと思っていたから。
「エリック様の仕事は人々を幸せにする。ずっと憧れていたので、むしろ光栄なことですわ」
リュシエンヌがつぶやくとエリック様はほんの少しだけ切なそうに笑って手を握り返した。
「ではこちらへ、わたしのアデライド」
手を引かれ、導かれるようにして彼の仕事場に足を踏み入れた。
トルソーに掛かった作りかけの服、棚に置かれた布や、ビーズや飾りリボンに刺繍糸。
床に散らばる端切れや迷子のような糸屑でさえ、命の輝きに満ちている。
ここはリュシエンヌにとって聖域だ。美しい物しかない場所、さまざまな色と造形が生まれるところ。
エリック様が魔法のように作る服を見て、リュシエンヌはこの世界が美しいものだと知った。
「何度見ても、まるで天国みたいな場所ですね」
「ここが天国なら、君は舞い降りた天使だ」
「もう、冗談ばっかり!」
「冗談ではないのだけれどね」
エリック様ったら、真面目な顔でそんな甘い言葉を囁くから誤解されるのよ。
上目遣いで軽く睨むと、なぜか彼は頬を染めて心臓のあたりを軽く押さえた。
「ここに立って、巻き尺で測るからその間だけ君の体に触れるよ」
「はい」
「視線は前に向けて、緊張しないで楽にしていいから」
首から肩、肩から腕へ。エリック様は慣れた手つきで採寸していく。
巻き尺の擦れるシュッという音と、布越しに触れる指先のもどかしさ。宝物を扱うような手つきが心地よくてリュシエンヌは吐息をこぼした。
なめらかに滑る巻き尺の音と採寸を書き込んでいくペンの音だけが、静かな部屋を満たす。
視線をエリック様に向けると、普段は柔らかな表情が一変して真剣なものに変わっている。
これが職人として働くときの彼の顔なのか。凛々しいというか、とてもかっこいい。
顎に彼の指先が触れて顔を上げると顔の近くに真摯な眼差しがあって、リュシエンヌの心臓が高鳴った。
「エリック様は他の女性にも同じように採寸するのですか」
だから無意識で自分の口からこぼれ落ちた言葉に驚いた。
向かいに立つエリック様の目が見開かれる。
どうしよう、これではまるで嫉妬しているみたいだ。
理由もわからず苛立った気持ちをそのままぶつけてしまった。
「申し訳ありません、エリック様の行動を制限しないようにと言われていたのに!」
あわてたリュシエンヌが謝罪すると、彼はどこか苦しそうに、でも幸せそうな顔で笑った。
「いいんだ、むしろ私のほうが君に懺悔しなくてはならない」
「懺悔ですか、エリック様が?」
巻き尺を机に置いたエリック様はリュシエンヌの足元にひざまずく。
どういうこと?
目を丸くするリュシエンヌのワンピースの膝下あたりを片手で掴んでそっと掴んで口づけた。
服従、敬意を表して。臣下から主に贈る口付けはこの国だけに残る古い儀式で使われるものだ。何でこんな真似を、エリック様は。
「初めからやり直しをさせてほしい。出会ったとき、わたしは愚かにも君に契約を持ちかけた。けれど最初から機能していなかった、それだけでなくただ話をややこしくしただけ。あのときはこんなにも……君のことを愛してしまうなんて思いもしなかったから」
リュシエンヌの思考があっさりと停止した。それから咀嚼して、じわじわと頬が赤くなる。
愛しているって、それは私を?
信じないわ。そう信じてはダメよ、弱さは人を愚かにするの。
「エリック様、冗談にしては度が過ぎていますわ」
「冗談なんかじゃない!」
眉を下げて、ひざまずいたままエリック様は激しく首を振った。心底悔いたように、顔を歪めて。
「たしかに最初は面倒なことになったと思った。君のことは悪い噂しか聞いたことがなかったから。でも実際はまったく違っていて。アデライドは愚かでわがままではなく、聡明で献身的だった」
知れば知るほど、深く惹かれていく。
それはリュシエンヌも同じだ。
エリック様は浮き名を流すことなくただひたすらわたしだけを見て、わたしのために生きている。
「けれど君の過去を聞いたとき、強烈な怒りを覚えた。あのときわたしが真っ先に怒りを覚えたのは自分に対してだ。何も知らないくせに愚かにも契約なんて持ち出して、傷ついている君をさらに傷つけた」
リュシエンヌは目を見開いた。
最初に交わした契約のことを、彼はそんなふうに考えていたの?
「許されるわけがない。だってあのときのわたしは君の不幸な境遇を利用したのだから。やり方は違っても、やったことはオベール家と同じだ。だからこのまま君を冷たく突き放して新たな幸せに送り出すことも考えた、けれど!」
裾をつかむ手に力がこもった。
デザイナーの道と同じ、エリックにとってアデライドは足掻いてでも失いたくないものだった。
そして愛とは失ったら二度と取り戻すことができないものでもある。
「出会ったときから今もずっと、わたしの泉で女神で天使はアデライドだ。君を愛するつもりはないなんて言った愚かなわたしを許してほしい。縛りつけないと言ったけれど、君がいないと不安なんだ」
うつむいていたエリックは顔を上げる。声だけでなく、表情も必死だった。
リュシエンヌの目に映る彼の瞳には、嫌悪や蔑みといったリュシエンヌの見慣れた負の感情はなく、深い後悔と自分自身への怒りだけが浮かんでいた。
「いまさらどの面下げてと思うだろうが、君を失いたくない。許さなくてもいいから一生をかけて償わせてほしい」
自分でも呆れるくらいに拙い謝罪の言葉を紡いで、エリックは再び深く首を垂れた。