オベール家の崩壊
深々と頭を下げて侍女は応接室へと歩いていく主人の背中を見送った。そして廊下の角を曲がったのを確認すると玄関とは反対の方角へと踵を返す。
追い立てられるように走る侍女の目的地はフルニエ家ではなく、廊下の先にある侍女長室。
なぜかわからないけれど、そうしなければならないような気がした。
――――
応接室の扉をノックをすれば応答の声があった。一呼吸おいてオデットは扉を開ける。
「失礼いたします」
扉の先にはセレスタン様がうつむいたままソファーに座っている。素早く動いてその隣に座ると、オデットは努めて優しい声と表情を浮かべながら労るように声をかけた。
お母様が言うにはリュシエンヌはいつもこんなふうに言葉をかけていたらしい。
「お疲れのようです、大丈夫ですか?」
返事がない代わりに、深いため息が聞こえる。
あら、いつもなら微笑んで平気だとか言うのに。様子がずいぶんと違うようだ。
ならばともう一つと、言葉を重ねた。
瞳を伏せて、あえて傷ついたような顔で。うつむくと、頬に金色の後毛が落ちる。
「父が申し訳ありません。王家を謀るなどと、筆頭公爵にあるまじき行いをして」
その瞬間、忍耐の限界を迎えたようにセレスタン様が拳で強く机を叩いた。ガンという重い音を立てて、わずかに机が揺れる。オデットは小さく悲鳴を上げた。
青ざめた顔、憎しみで歪んだ表情。今までセレスタン様がこんなふうに激しく怒りをあらわにすることがなかったからだ。
「セ、セレス様?」
「君に聞きたいことがある」
「はい、何でしょう?」
怒りを呑み込んだせいか、荒々しい手つきでセレスタンは机の上に伝票を並べた。
何かと思えば伝票は請求書だった。
オデットは伝票の商品名や店名を見て、息を呑む。
リュシエンヌ……オデット・フルニエに成りすまして注文したドレスと小物だわ。
お披露目を兼ねた晩餐会で着る予定で気合を入れて注文したものだった。
それ以外にも、違う種類のドレスやそれに合わせた小物、靴もある。
おかしいわ、こんなに買ったかしらね?
「顔色が変わったね、覚えがあるようだ」
「いいえ、わたしは知りませんわ!」
だってオデットの名義で買ったものはフルニエ家が支払うべきもの。オベール家でリュシエンヌを演じるオデットが知るはずのない買い物だ。シラを切り通せばそれで問題ないはず。
強く否定するオデットにセレスタン様は深々と息を吐いた。
「フルニエ商会がオデット・フルニエ名義の請求書の支払いを拒否した」
「は? だってオデット・フルニエの買い物でしょう。フルニエ家が支払うのは当然ではありませんか!」
するとセレスタン様は皮肉げな笑みを浮かべた。
「フルニエ商会はこれらの請求はオデット・フルニエを騙る第三者の詐欺だと主張している。請求書の日付には彼女が怪我をして引きこもっていた時期のものが含まれていたそうだ。しかも症状と療養期間については正式な医師の診断書までついている。少なくとも、その時期のものは間違いなく誰かが彼女に成りすまして注文した」
「……嘘でしょう」
怪我とはおそらくオデットが殴ったもの。たしかに酷く腫れていたけれどそのせいで引きこもっていたとは知らなかった。仕事に来ないのは療養という名目にかこつけて遊び歩いているものと思っていたから。
セレスタン様は暗い眼差しで深々と息を吐いた。
「フルニエ商会は今後、同様の被害を防ぐためにオデット・フルニエ名義の後払いの請求書は一切受けないと請求先に通達した。後払いを受けないなんて、信用をなくしたのと同じなのにずいぶんと大胆な手を使うものだ」
まさか嘘つきと評判な女の言い分をフルニエ商会は信じたと言うの!
そんなバカなことが、オデットは言葉を失った。
「フルニエ商会の商会長はこう言ったそうだ。後払いとは本来なら納品時に納品先へと請求するものだと。たしかにそれが当然だと私も思う。それで資金を回収できなかった請求書を持って納品先に従業員が殺到した。さて、これらの商品の納品先とはどこだったのか」
オデットは青ざめた。彼がなぜこんなに荒れているのかがわかってしまったからだ。
「納品先とはこのオベール家だ。オデット・フルニエの買った商品がなぜここに納品されるのだろうね」
セレスタン様は納品書の束の上に手のひらを叩きつけた。パンッと乾いた音を立てて弾かれた伝票が舞う中、テーブル越しに彼はオデットと視線を合わせる。
「君達は何を企んでいる?」
「いいえ、いいえ! 企むだなんてそんな!」
「水害の被害で領地の運営はギリギリだ。どこにこんな贅沢品を買う余裕がある。そんなことぐらい少し考えればわかることじゃないか。オベール公爵家を食い潰すつもりか⁉︎」
君達というセレスタン様の含みを持たせた言い回しに気づくことなくオデットは無罪だと繰り返す。だって今までも同じくらい買っていたけれど領地も爵位も無事だった。
それがいまさら何よ。そうだわ、こうなったら……!
「すべてオデットが悪いのです。贅沢好きな性格は嫁いでも治らなくて。だから第三者の騙りではなく、間違いなく本人が買ったものですわ。納品先にオベール家を選んだのも、商会に散財を見咎められるのを恐れたからでしょう。たとえばわたしの衣装部屋に紛れ込ませてしまえばバレないとでも思った」
リュシエンヌを装うオデットは肩を震わせて両手で顔を覆った。利用されただけの哀れな被害者を装うために。
「わたしも知らなかったのです。まさかオベール家を利用するなんて思ってもおりませんでした!」
「知らなかったのなら、なぜ疑いもせず本人が買ったと言える?」
「赤茶色の髪をして派手に散財をするような貴族女性はオデットしかおりませんもの」
「では、聞き方を変えよう。この買い物をしたのが赤茶色の髪をした女性だとどうしてわかった?」
オデットはハッとして口をつぐんだ。しまった、思わず。
「商会長はこうも言っていたそうだ。マダム・ジャクリーヌの店にオデット・フルニエ本人が出向いて採寸している。だから店に残る記録と同じ採寸のドレスがあれば、それは間違いなくオデット・フルニエ本人のものだからフルニエ商会がお支払いしましょうと。そこで各店の従業員がマダム・ジャクリーヌの店へと照会したそうだ。その結果がこれだ」
「それこそフルニエ商会が言い逃れのために用意した別人の採寸では?」
「君は王家御用達のマダム・ジャクリーヌが嘘をついているとでも言いたいのかい?」
「そ、そういう意図はありませんが」
なぜだろう、先ほどからオデットの言い訳はすべて裏目に出る。
「マダム・ジャクリーヌとオデット・フルニエの夫は昔から付き合いがあるらしい。同行した夫の証言があるのだからこのうえなく確かな証拠だと、フルニエ商会だけでなくマダム・ジャクリーヌも主張している」
「夫同伴で、来店」
「ちなみにデザイナーである彼女の夫はこう言ったそうだ。既製品と違い、オーダーメイドの服は注文主の体型に合わせるため採寸して専用の型紙を作る。つまりオーダーメイドのドレスを着こなせた人物こそが注文主であり、納品されたドレスそのものが証拠だと。そうだ、冤罪であれば証明として仕上がったドレスを試着してみるかい?」
試すまでもないと言わんばかりの顔だった。
エリック・フルニエが、また余計なことを!
「騙されてはいけませんわ。オデットの夫といえば女性服のデザイナーでしょう。浮気者の、女がいないと生きていけないような醜聞まみれの男の証言など、まともに取り上げる価値もありません」
するとセレスタン様は一瞬目を見開いて、悲しげに表情を歪ませた。
「偏見は才能の芽を潰すことになる。たしかにこの国では男性が女性物の服をデザインすることを嫌悪する風潮はあるが、君のような影響力のある人間が言ってはいけないことなんだよ。貴族学校でもそう学んだはずだ」
「それは、ですが!」
「君は変わってしまったね、昔のリュシエンヌなら決してそんなことは言わなかったのに」
リュシエンヌ、リュシエンヌって。オデットは怒りに我を忘れた。
「バカじゃないの、リュシエンヌを捨てたのは自分でしょう!」
「捨てた? 一体、どういう意味」
「……それについてはわたしも詳しくお聞きしたいです」
いつの間にか扉が開いていて、訝しげに眉を顰めたセレスタン様の横に真っ青な顔をしたバルトロ伯爵夫人が立ち尽くしている。
いつからそこにいたのか、どこまで話を聞かれた?
また面倒な相手が増えたと思ったオデットはなりふりかまわず叫んだ。
「侍女長たるものが、許可も得ずに押し入ってくるとは何事ですか。今すぐに出ていきなさい!」
「そんなことは今、どうでもいいことです!」
「どうでもいいですって⁉︎ 主人の言うことが聞けないなんて使用人風情が失礼極まりないわ!」
「落ち着きなさい、リュシエンヌ! バルトロ伯爵夫人、あなたほどの人が、それはどういう意味ですか?」
バルトロ伯爵夫人の肩が震えている。彼女の探るような視線はずっとリュシエンヌに注がれていた。
珍しくうろたえる彼女の姿にセレスタンは嫌な予感しかしなかった。
「リュシエンヌ様、あなたは嘘をつきましたね」
ああ、そのことか。面倒なことになる前にオデットはさっさと謝ってしまおうとあっさり認めた。
「ごめんなさい、セレスタン様に厳しい口調で問われて思わず。でもほら、誤魔化すために嘘をつくなんて誰にでもあることでしょう?」
「そうではありません、あなたは嘘をつけないのです。そう戒められているではありませんか!」
「え、どういうこと?」
バルトロ伯爵夫人は震える声で、けれどきっぱりと言い切った。
「オベールの黄金を持つ者は嘘がつけない。嘘をつくと、直ちに血を吐いて死ぬ」
「……は?」
「過去にはやむを得ずついた嘘で血を吐いて死んだご当主もいるそうです。他家に知られると悪用される恐れがあるとのことで、王妃様が内密にと前置きをしてからわたしに教えてくださいました」
オデットの顔から完全に血の気が引いた。豪奢な黄金の髪さえ、今は色褪せて見える。
「そんなこと知らないわ!」
隣に座るセレスタンは呆然とした顔で自身の婚約者を見つめる。
オベールの黄金を持つ者は嘘がつけない。
そんなことを誰も教えてくれなかった……もちろん、リュシエンヌからも。
彼女がリュシエンヌ・オベールでないというなら、わたしは一体誰を守ってきたというのか?
あってはならないこと、いてはならないもの。
まるで影の病、ドッペルゲンガーのような――――おまえは誰だ?
「あなたは誰なのです?」
セレスタンの心の内側を代弁するようにバルトロ伯爵夫人の言葉が響いて。
応接室には痛いほどの沈黙が落ちた。