オデット・オベールの反撃
今まさにオベール公爵家は戦場だった。
城の文官達が不躾にも家内を踏み荒らし、怪しいものを見つけ次第、根こそぎ奪い去って行く。彼らの強引な態度には遠慮も配慮もなかった。そして兵士達のオベール家を神のように崇めていた視線が、まるで罪人を見るような暗い眼差しに変わっている。
ああ、なんでこんなことに。
リュシエンヌ・オベール公爵令嬢――――オデットは爪を噛み、イライラしながら自室を歩き回っている。
せっかく父が領地から戻ってきたのに、そのまま攫われるように城へ連れて行かれてから一週間。
要請という名の王命に抵抗する術はなく、オデットはずっと部屋に軟禁されていた。
セレスタン様の指示だと言われたら文句なんて言えないわ。
でもどうしてわたしがどうしてこんな目に遭わなくてはならないの?
不幸の始まりはヘレンが侍女長をクビになったことだった。
仕事はできないけれど、お母様やオデットのために進んで悪事に手を貸してくれたから便利だったのに。それどころか、後任として優秀だが口うるさいと有名なマルグリット・バルトロ伯爵夫人が城から派遣されてきた。
毎日毎日文句ばかり言われて、あからさまに見張られていては落ち着かないのよ。
そして今度は長雨のせいで領地の川が氾濫し、セレスタン様との結婚式は延期に。
そのうえ何かしでかしたようで父の側近であるヨハンが捕えられて牢に閉じ込められていたが取り調べのために彼もまた城に連れて行かれた。
極めつけに父までもが。税金を誤魔化したなんて、こんな大事な時期に一体何をしているのかしら!
「今までは何の問題も起きなかった。それがどうして急にすべてがうまくいかなくなったの」
これまでのオデットはまさに順風満帆、向かうところ敵なしだった。
切迫するギリギリの状況でも最後は勝利をつかみ取ってきたのだ。それがあるときを境にしてすべてが狂い始めた。その理由がオデットにはどうしてもわからない。
だって何も変わっていないわ、オデットがリュシエンヌになってから何一つ……そこまで考えたところでようやく思い当たることがあった。
オデット・オベール――――リュシエンヌの結婚。
「本当に余計なことしかしないのだからあの女は!」
オデットは歯噛みする。あの女、リュシエンヌは何から何まで気に入らなかった。
初めて会ったときもオベール公爵家の正当な後継として、大切にされて育ちましたといわんばかりの顔をして。
正妻が産んだ後継者と、血を継がない後妻の娘。
あまりにも扱いが違いすぎた、そのうえ同じ顔をしているからこそ余計に忌々しい。
私がそちら側だったら、そう思うほど境遇の差に腹が立って仕方なかった。
「だから奪ってやっただけ、何が悪いの!」
奪われるほうが悪い。それは隙があったからだ。
お父様も、お母様もそう言った。
あなたは悪くない、悪いのは愚かなあの娘なのだと。
だから愚かな気狂い姫にふさわしく、誰もが毛嫌いするような男に嫁がせたかった。
エリック・フルニエを選んだのは、友人の誰に聞いても彼にだけは嫁ぎたくないと言ったからだ。
成り上がりの商人の息子で、浮気者の女好き。出来の悪いほうの息子で、家からも除籍されかかっている。どれだけ家が裕福だろうと、不幸になるのはわかっているから、あの男にだけは嫁ぎたくと誰もがそう言っていたから。
どん底まで突き落として、これでようやく厄介払いができたとそう思っていたのに!
悪評まみれの男がわざわざオベール家に来たというから、どれだけひどい男なのかと会ってみた。
それがどうだ、オデットは憎しみで顔を歪める。
美しい男だった。身のこなしは洗練されて、微笑みは甘やかで。
デザイナーという実力主義の世界で磨かれたためか、個性が際立つ独特の輝きを放っている。
醸し出される色気と華麗さにオデットは思わず魅了された。そしてセレスタン様のときとは違う意味で欲しいと思ったのだ。
婚約者であるセレスタン様は第二王子、身分や容姿の美しさだけでなく優秀で品行方正と評判の男性だ。けれどオデットにすれば真面目だが堅物で積極性と面白みには欠けていた。
リュシエンヌから奪い取るまでは輝いて見えたのに。
最近は忙しいようで陶器のような美しさにも翳りが差し、情熱は失せて、オデットにすればただ口うるさいだけの面倒な相手に成り下がった。
まあ、男なんて手に入ってしまえばこんなものよね。
だからリュシエンヌが唯一無二の装飾品のような男を侍らせていることが我慢できなかった。
オデットは自身の磨き抜かれた容姿が美しいことを知っている。そして自身の美しさと教養、公爵令嬢という身分が武器となることも。だからせいぜい引っ掻き回して二人の関係をぶち壊してやろうと思った、それなのに!
本当ですね、お会いしたら失望しましたよ。リュシエンヌ・オベール公爵令嬢。
あの冷めた目、あからさまに侮辱するような態度。悪評など恐れもせず、己が判断だけを信じている顔だ。
ふざけるな、二人揃って悪評まみれのくせに。
――――彼女はわたしの大切な妻なので。
扉の外で交わされた会話がさらにオデットの心を抉った。
揺るぎない信頼、悪評しかないリュシエンヌを誇るような言葉を彼は口にした。
今のオデットをセレスタン様はあんなふうに迷いなく信じてくれるだろうか?
何よりも、彼はオデット自身を見てくれたことはあるの?
思わず走って部屋を飛び出したけれど、あれ以上は耐えられそうになかったから。
昔も今もリュシエンヌだけが愛される。
自分がリュシエンヌだから愛してもらえる。
それが真実だとしても、断じてオデットは許容できなかった。
「はは、だったら離婚させてやるわ!」
オデットは引き出しからオベール公爵家の紋章が入った便箋と封筒を取り出した。次期当主であるリュシエンヌに与えられた権限で、この手紙に書かれた内容は当主の判断と同等に扱われる。
手紙の宛先はフルニエ家当主にした。内容はエリック・フルニエとオデットを速やかに離婚させて、オデットの身柄をオベール公爵家に戻すよう命じるものだ。
この国では高位貴族の権限が圧倒的に強い。しかもオベール公爵家は筆頭公爵、身分差を考えれば商人ならば否応もなく従うだろう。
離婚の理由はオデット・フルニエの散財にしよう。
オベール家当主の慈悲によって嫁いだオデットだけれど、贅沢好きという悪い癖は治らなかった。だから結婚後も今までのように散財したため、フルニエ商会に多大なる被害を与えてしまった。そのことを知り、心を痛めたリュシエンヌ・オベールが仕方なく次期当主の権限を使って離婚させたという筋書きだ。
そうすればオベール家の慈悲深さが際立って、オデットの評判をさらに下げることができる。
新しい財布を失うのは残念だけれどね!
ただ裕福な商人とはいえ、財布の中身は無限ではない。オデット・フルニエ名義でだいぶ散財した記憶があるから、さすがにそろそろあちら側でも問題視される頃だろう。
フルニエ商会にしてもオデットの散財という悩みのタネが解消されるわけだから好都合、嫌がる理由はない。たとえエリック・フルニエが抵抗しても当主同士が納得して署名すれば離婚だって簡単に成立する。
完全なる政略、貴族の結婚とはそういうものなのよ。高らかに笑って、オデットは唇を歪めた。
「愚かな気狂い姫が、貴婦人ですって。笑っちゃうわ!」
しかも今までどおり下級侍女として働かせるために、アデライドと呼ばせるなんてバカバカしい。
オデットはパッと表情を輝かせた。
「そうだわ、何で今まで気がつかなかったのかしら!」
離婚が成立して出戻ってきたら、気狂い姫の名にふさわしく地下牢に閉じ込めておけばいい。それで当主としての書類仕事はすべて地下牢で処理させる。セレスタン様にオデットの行方を聞かれたときも、問題ばかり起こすので地下牢に幽閉していると言えば納得するはずだ。
「あとはあの女の顔をどうするかよね」
ほんのわずかな時間オデット・オベールとして顔を合わせたときとは違って、セレスタン様はアデライドとして振る舞うリュシエンヌと何度も顔を合わせている。
偶然にでも地下牢で顔を見られてしまえば、なぜアデライドがオデット・オベールとして閉じ込められているのか疑問に思うに違いない。
変に真面目な人だから、お父様のときのように詳しく調べられては困るわ。それならリュシエンヌに成りすますとき以外は、いっそ仮面でもつけさせるか。
閃いた状況を想像したときオデットは腹を抱えて笑ってしまった。
ああ、おかしい! 地下牢に、仮面だなんて、まさに気狂い姫にふさわしい演出じゃないの!
悲劇か、喜劇か。まるで演劇の舞台のよう。オデットの思い描く完璧なシナリオではリュシエンヌは常に悪役だった。そしてこれまでのリュシエンヌは、気狂い姫にふさわしくオデットの思いどおり悪役を演じてくれている。
ああ、そういえばリュシエンヌは今日出勤しているはずだ。どうせ離婚が成立するのだから、家に帰さずこのまま地下牢へ閉じ込めてしまおう。
「さあ、新たな舞台の幕開けよ!」
手紙を書き終えたオデットは侍女を呼ぼうと扉を開けた。すると開け放った扉の前に、今まさに呼ぼうとした侍女がいる。あまりのタイミングの良さにオデットは驚いた顔をした。
「あなた冴えているわね、ちょうど呼ぼうと思ったのよ。この手紙をフルニエ商会に届けてちょうだい。それから男の使用人に指示して、今すぐアデライドを空いている地下牢に閉じ込め」
「セレスタン様が、今すぐ応接室に来るようにと申しております!」
これ以上は言わせまいとばかりに侍女はオデットの言葉を遮った。
主人の話を最後まで聞かないなんて不敬極まりないわね!
けれど慈悲深いリュシエンヌを演じているなら、このくらいは我慢しないと。
怒鳴り散らしたい気持ちを抑えてオデットはグッと怒りを呑み込んだ。
「わかりました、今行きます。その代わりこの手紙を出しておきなさい。それとアデライドがごねるようなら当主代行の指示だと伝えてかまわないわ。そうすれば黙って従うでしょう」
「かしこまりました」
あの娘はオベール家を愛している。だから絶対に逆らわない。
そういうふうに育てられたのよ、かわいそうにね!
侍女に背を向けたときオデットは勝利を確信していた。