アデライドと招かざる客
「ねぇ、アデライド。君は侍女の仕事をしに行っているんだよね。どうして負傷して帰ってくるのかな?」
「ご、ごめんなさい」
もちろん、リュシエンヌが悪いわけではない。
でも若干涙目になりながら、処方された軟膏を一生懸命塗り込んでくれるエリック様の姿を見てしまえば謝る以外の選択肢はなかった。
「君が悪いのではないことはわかっている。物を投げられたのだって、わたしがオベール公爵家に乗り込んだのも原因だと思っているから。余計なことをして、ごめんなさい」
「そんなことはありません!」
しょんぼりと、落ち込んだような顔をするからリュシエンヌはあわててしまう。
遅かれ早かれ衝突は起きた。それがエリック様の登場で、より劇的に機会が早まったというだけのことだ。
あのあとエリック様に何をどう話したのか確認したところ、見事にオデットの弱点を抉っていたのよね。
……もしあれが無意識だとすれば逆に恐ろしいわ。
「とにかく、怪我はエリック様のせいではありませんよ」
「たとえそうだとしても、オベール家での君の扱いが酷すぎる。こういうことが重なって、いつか取り返しのつかないことになりそうでこわいんだ」
沈んだような彼の表情と声音にどれだけ心配してくれているのかがわかる。
彼は軟膏を引き出しにしまって、指折り数えた。
「まずは頬を腫らして熱を出し、次には熱い湯と陶器の破片で肌に傷がついて、とうとう首を絞められた。君は物語で悪役令嬢のいじめを健気に耐えるヒロインなのかな。やめてしまいなよ、悲劇のヒロインなんて損な役回りは。アデライドだけではなく、誰も幸せにならない」
誰も幸せにならない、その言葉がリュシエンヌの心に刺さった。
ふと、忘れかけていた怒りに火がつく。
それは幸せになることを約束された人の台詞だ。得られるはずの幸せを奪われた人間には憎しみしか残らない。
何も知らない人間のきれいごとはたくさんだわ。
リュシエンヌは、すっと表情を消した。
「エリック様、我々は戦友で同志です。詮索しないことも契約のうちではありませんか?」
戦う相手がいるのだ、傷ついたとしても当然のことだから。
するとエリック様は息を呑んで、ふっと笑った。
「そうだったね。すまない、踏み込みすぎたみたいだ」
寂しそうな眼差しにリュシエンヌは視線を伏せる。
なぜ契約を持ちかけたあなたが傷ついた顔をするのよ。
エリック様は上着を手に取ると、帽子をかぶった。
「少し頭を冷やしてくる」
そっけない言葉と後ろ姿にリュシエンヌは胸の奥が痛んだ。
聞いてはダメなのに。どこに行くのか……誰のところへ行くのかなんて。
扉が閉まる音を聞きながら冷たい床へと座り込んだ。しんと静まり返った部屋に不安が募る。
もしかしたら彼は、もう帰ってこないかもしれない。
最初は小さな温もりだけで足りていたのに。こんなよくばりになってしまうなんて思いもしなかった。
「今日はお休みをいただいていてよかったわ、これでは仕事にならないもの」
特別に休暇をもらったのは侍女長の配慮だった。表向きは、通いのはずが帰宅できなかったのでそのぶんを休みに振り替えたという扱いで。でも実際は父の帰宅に合わせてオベール家に捜査が入るからだ。
執務室を開けて、証拠となる書類を収集する。その過程でリュシエンヌに被害が及ぶことを恐れたからだった。リュシエンヌにはわかる、懸念は間違いなく当たるだろう。
きっと父はリュシエンヌを口汚く罵るはずだ。
出来損ないの、裏切り者。すべてはあの娘の仕業だと。
「目の前で言ってやりたかったわね――――本当に愚かだ、それを誰が信じるのかと」
だって確認者の欄にしっかりと父の署名があるのよ。
父は真摯に尽くしてくれた執事長に横領という罪を着せて侍女長とその息子共々身一つで追い出している。
あのときから、リュシエンヌは父とヨハンに同じ罪を背負ってもらうと決めていた。
二人仲良く絶望を味わえばいい。
そう思ったところでリュシエンヌは皮肉げに笑った。
こんな醜いわたしがエリック様の泉や女神になれるわけがない。
彼の見せてくれる夢が、あまりにも鮮やかで優しくて思わず欲が出たのだわ。
彼を傷つけて、自分が傷つく前に。ちゃんとお別れしないと。
リュシエンヌは熱を逃すように深々と息を吐いた。
どれだけ時間が経っただろうか。気がつくと表で呼び鈴が鳴っている。
誰かしら、ゆっくりと立ち上がってリュシエンヌは扉を開けた。
「まあ、お義父様ではありませんか」
扉の外にいたのはフルニエ商会の商会長であり、エリック様の父親であるクレマン・フルニエ様だ。
顔だけは拝見したことがあって直接お会いするのは初めてだけれど、今日は突然どうしたのかしら?
しかも決して機嫌が良いという顔ではない。
「エリックに言っても君は関係ないというばかりで話にならない。だから今日は直接君に苦情を言いにきた」
「苦情ですか?」
「しらばっくれた顔をしても無駄だ。邪気のない顔で悪事を働くなんてさすが気狂い姫と呼ばれるだけある」
許可もなくリュシエンヌを押し除けて部屋に入ってくると、机の上に領収書の束を叩きつけた。
日付を見ると、ここ三ヶ月くらいで溜まった請求書のようだ。
「とんでもない額の買い物をしてくれたものだ、このまま使い続けたらフルニエ商会は破産だぞ!」
険しい表情が事実であることを物語る。リュシエンヌは伝票の束を手に取った。
ドレスに装飾品、男性物の服、それから贈り物に使ったと思われる高価な酒にお菓子に花といった日用品まで。しかも請求先はすべてオデット・フルニエとなっている。
まあ、ずいぶんと散財したものだ。
これを支払い続けていたら、いくら裕福な商家でも立ち行かなくなるだろう。
リュシエンヌの脳裏に、義母とオデットの顔が浮かんだ。
あの人達、セレスタン様が婿入りしてくるのにどうやって多額の支払いを誤魔化す気なのかと思えば。こうするつもりだったから散財をやめなかったのね。
支払いの請求先がオデット・オベールから、オデット・フルニエに変わっただけなのだから!
なるほど、リュシエンヌをフルニエ商会に嫁がせたのは新しい財布を確保するという思惑もあったのか。しかもこのやり方ならばオベール家の懐が傷まないし、金遣いの荒さも誤魔化せる。よく考えたわね、頭の使う先が大いに間違っているとは思うけれど。
でもね、これはいくらなんでもやりすぎ。
「オデット、買った商品をどこに隠した。まさか売ったのではあるまいな⁉︎」
睨みつけられても、そもそも買ったのがわたしではないからどこかなんてわからないわ。
リュシエンヌは慎重に言葉を選んだ。
「わたしは買っていません。ですから隠していませんし、売ってもいません」
「嘘をつくならもっとマシな理由を用意してはどうだ?」
「嘘とする根拠はなんでしょう。買った商品を売れば商人であるお義父様の目に留まらないということはないはずです。それに隠していると言われても……良ければクローゼットをごらんになりますか?」
「いや、そこまで簡単に言うのならクローゼットにはないのだろうな」
ぐるりと屋内を見回したお義父様は、奥まった場所にある小部屋に目を留めた。
「あの部屋の中を見せなさい」
エリック様の作業部屋だ。部屋の中には納品前のドレスやワンピース、飾り付けに使う宝石やレース、繊細な意匠の装飾品もある。今のお義父の勢いで荒らされたら、そういう貴重なものや大切なものを壊されたり、奪われてしまいそう。リュシエンヌは勢いよく立ち上がった。
なんとしてでも守らなければ!
「顔色が変わったな、やはりあそこに隠しているのか」
「いいえ、違います。あの部屋はエリック様の作業部屋です。納品前の商品や材料もあるので、エリック様の許しもなく勝手に人を入れるわけにはいかないからです」
「ハッ、デザイナーだったか。商人になれないからと、おかしな仕事を選んだ。さあいいからどきなさい、私が自分の目で確認する!」
扉の把手を隠すようにリュシエンヌは立ち塞がった。
「おかしな仕事ではありません。ドレスはフルニエ商会でも取扱っているではありませんか! デザイナーが斬新な衣装を描くからこそ流行が生まれて商品が売れる。立派な仕事ではないですか」
「それは女性に任せておけばいいんだ! あいつは商家の長男に生まれたくせに出来が悪くて商家を継げなかった。あいつのせいでフルニエ商会がバカにされるんだ。だからこれ以上道を踏み外すことのないよう、父であるわたしがあいつを間違った場所から連れ戻さなくてはならない!」
間違った場所ですって。あれだけ美しく幸福に満ちた場所をリュシエンヌは他に知らなかった。
「商家に生まれましたが、エリック様はデザイナーとしての才能を持って生まれてきたのです。それは誇るべきことではあって彼を貶めていい理由にはなりませんよ!」
美しい物を売るのではなく、美しい物を作るほうに興味と才能があった。
するとお義父様は呆れたような顔をして肩をすくめた。
「オデット、おまえは愚かだから騙されているんだ。あいつは偉そうなことを言っているが、どうせ大した仕事はしていない。不器用で怠け者のエリックにまともな商品が作れるわけがないんだ!」
「怠け者ではありません。エリック様のデザインする一点物のドレスやワンピースは他国で飛ぶように売れていて、真面目で丁寧な仕事ぶりも評判が良いと聞いています。それに元が不器用だったとしても、たくさん練習されたのでしょうね。縫い目も揃っていてきれいですし、エリック様の刺繍も素晴らしいのです!」
エリック様が出来上がった商品を見せてくれる、あの時間がリュシエンヌにとって宝物なのだ。リュシエンヌの目には彼の作るドレスやワンピースはキラキラと輝いて見える。
それに評判や仕事の腕前のことは本人からではなく、エリック様に連れて行ってもらった美容室で従業員から聞いた情報だ。他人からの評価だから信用してもらえるとそう思ったのに。
「それはあいつが付き合っている女性達からの情報だろう。そういうところは抜かりないやつだからな。愚かだからおまえはエリックにうまく言いくるめられたんだよ」
「そんな、そこまで」
「わたしは自分の目で見たあいつの評価がすべてだと思っている。あいつの関する他人の評価など信用に値しない」
出来損ないなんだ、あいつは。
吐き捨てるようなお義父様の言葉にリュシエンヌはようやく理解した。彼のあきらめたような顔の意味を。
見限ったのか、エリック様は。相容れないものとあきらめて、断ち切ることを選んだ。それも彼なりの戦い方なのかもしれない。
でもね、わたしには別の戦い方がある。
わたしは、負けない。




