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エリック・フルニエの嘲笑2

 

 一瞬にしてエリックの顔から感情がごっそりと抜け落ちる。

 エリックの泉で女神で天使に何ということを。

 そう思われるように振る舞ってきた自分のせいでもある。


 ごめん、アデライド。君の立場を考えたら耐えるべきだけれどこれは無理だ。


「本当ですね、お会いしたら失望しましたよ」

「でしょう!」

「あなたにですよ、リュシエンヌ・オベール公爵令嬢」

「な、何ですって!」

「慈悲深くお優しい方だから、オデット嬢をわたくしに嫁がせてくださったと思っていたのですが。まさか義妹の不幸を狙って相手を選んでおられたとは思いもしませんでした。しかも婚約者がいながら、別の男性に付き合ってもいいからと自ら手を差し出すとは!」

「ちょっと、声が大きいわよ!」


 部屋の外まで聞こえるように言ったのだから当然だ。

 エリックはにっこりと笑った。リュシエンヌ・オベール公爵令嬢は虚を突かれたように黙り込む。


「隙があり過ぎですよ、部屋の外で誰が聞いているかわからないというのに」

「お、おまえわざと黙って」

「ご安心ください、噂とは違ってアデライドはわたしにさまざまな恩恵を与えてくれます。彼女から振られることはあっても、わたしから捨てることはありません」


 きっぱりと言い切ったエリックにリュシエンヌ・オベール公爵令嬢は肩を震わせて怒りを露わにする。

 そしてついにはエリックの顔に扇子を叩きつけた。

 その叩きつけられた扇子をエリックは難なく受け止める。


「出て行きなさい、おまえはオベール公爵家に出入り禁止よ!」

「さまざまな階級の女性とお付き合いしましたが、扇子を投げつけたうえで出禁にした方はあなたが初めてですよ。まるでオデット嬢の悪評のようだ。わがままで、傲慢」

「調子に乗っていられるのも今のうちよ、わたしが言えばフルニエ商会なんて簡単に潰せるの!」

「そうそう、わたしは新聞社にも知り合いがいるのですよ。彼らは常にゴシップに飢えていましてね、婚約者のいる貴族令嬢の道ならぬ恋なんて大好物だ」

「わたしを脅す気なの?」

「とんでもない、好物の話ですよ!」

 

 エリックはからかうようにニヤリと笑って扇子をテーブルに置いた。

 リュシエンヌ・オベール公爵令嬢は睨みつけながら唇を噛む。


「アデライドとフルニエ商会に手を出す気なら、この件を実名入りで公表します。あなただけでなく、わたしもね。相手は浮気者で女がいなければ生きていけない男。そのほうが刺激的でより情報の信憑性が増すというものだ」

「な、何ですって! そんなことをすればあなただってただでは済まないわよ」

「どうしてです? いまさら醜聞が増えたところで痛くもない」


 そう、エリックにとってはいまさら。相手が変わったところで醜聞が一つ二つ増えるだけ。

 ……アデライドは、きっと傷つくだろうけれど。

 それでも手をゆるめる気はなかった。エリックはテーブルに手をついて身を乗り出す。真っ直ぐにリュシエンヌ・オベール公爵令嬢の顔を見て、皮肉げに口元を歪めた。


「あなた方は我々を悪評まみれと馬鹿にする。でもね我々は失うものがないのですよ、あなた方と違って。だからこそ想像もつかないような手段をためらいもなく使うことができるのです」


 エリックの気迫にリュシエンヌ・オベール公爵令嬢は息を呑み、顔色を悪くする。

 話は終わったとばかりにエリックは立ち上がって扉に手をかけた。

 そして振り向きざま、軽やかに笑って見せる。


「なぜあなた達は我々を侮ることができるのか。わたしからすれば不思議で仕方がないのですよ」


 失うもののない人間ほど怖いものはないというのに。


 そう言い置いて、振り向くことなくエリックは扉を閉める。

 目の前には厳しい表情をしたマルグリット・バルトロ伯爵夫人がいた。

 ああやはり、この場にいるとすればこの人と思っていたが。


「おひさしぶりです、マルグリット・バルトロ伯爵夫人」

「吹けば飛びそうな軽率さは相変わらずね、エリック・フルニエ」

「夫人は今もお変わりなく美しい」

「お世辞は結構よ、現在進行形で肌のシワと白髪が増えていることはわかっているわ」


 ピシャリとやり込められて、エリックは苦笑いを浮かべる。

 本当に、相変わらずだ。

 エリックがマルグリット・バルトロ伯爵夫人と面識があるのは、フルニエ商会経由で何度か取引に同行したことがあったから。ただどこか浮ついたところのあるエリックを彼女は気に入らなかったようで、あまり話すことはなかったけれど。

 立っている場所から判断して立ち聞きしていたのは彼女だけらしい。


「なぜ部屋に押し入ってでもリュシエンヌ様を止めなかったのです? あなたにはその義務がある」

「あなたに話すことはありません」


 話せない、つまり王家の意向か。


 伯爵夫人は姑息な手を嫌がる性格なのに、立ち聞きまでしなくてはならないほど追い詰められている。

 まあいい、エリックは彼女の抱える事情にこれっぽっちも興味はなかった。


「そんなことよりアデライドをお返しください」

「まったく、公爵家の問題をそんなことと言えるのはあなたくらいよ」

「褒め言葉ですね、ありがとうございます」


 今のエリックはアデライドとフルニエ商会が無事ならそれでかまわない。

 すると彼女は深々と息を吐いた。


「あなた達はどうして問題ばかり引き起こすのでしょうね」


 あなた達という言葉に自分だけでなくアデライドも含まれているような気がして、エリックはふっと笑った。

 エリックの泉で女神で天使はか弱いように見せかけて、したたかに立ち回っているらしい。


「何がおかしいのです」

「問題を引き起こす元凶ではなく、問題が起きたからアデライドに目を向けたのではありませんか? そうでなければ下級侍女なんて侍女長であるあなたの視界にすら入らなかったはずです」

「そんなことはありませんよ」

「あなた達にすれば渦中にいる我々が悪いのでしょうけれど、我々にとってもそうとは限らない。問題とされる行為が生き残るための手段であり、体を張った抵抗の結果であったとしたらどうでしょう? 標的となった人間だけが悪いのか、巻き込んだように見える側を一括りに悪と決めつけることは正しいことでしょうか?」


 エリックは廊下の先に視線を向けた。この闇の奥にエリックの愛おしい人が捕らえられている。


「教えてください。バルトロ伯爵夫人は、アデライドの何をご存知ですか?」

「それは、あの娘は何も語らないから」

「わたしは彼女がここで働く姿を見たわけではありません。けれど家事でも書類仕事でも完璧にこなして、このうえもなく優秀だ。それくらいなら家で働く姿を見ていればわかりますよ」


 相手が語らずとも、見ていればわかるものもある。


「任せてみれば、家事に抜けも漏れもない。手際がいいというよりも完璧にこなすことが習慣として体に染みついている感じです。それだけではなく計算にも長けていて請求書の金額に誤りを見つけてもらったときは感謝しかなかったですよ!」


 しかも万事控えめで、さりげなく教えたり手を貸してくれる。さすがエリックの女神で天使だ。


「ですが、彼女だって初めから何でもできたわけではないのでしょう。習慣として身につくまでは血の滲むような努力があったはず。誰も認めてくれなくても、ただひたすらに研鑽を積んだからこそ今の完璧な彼女が出来上がったのではないでしょうか」


 女神で天使だけれど、やはりそこは人だから。限界はあるし、つらいこともあったはずだ。

 美しい容姿だけに惹かれてエリックは好きになったわけではない。

 劣悪な労働環境でも身につくまで努力をして、それでも楽しそうに働く後ろ姿が健気で胸が痛むのだ。


「わたしのことは批判してもかまいません。ですがこの家で働く間だけでも彼女を正しく評価していただけないでしょうか。わたしの大切な――――妻なので」

 

 本人には決して言えないけれど。

 するとバルトロ伯爵夫人は目を丸くして、ふっと笑った。


「あなたの立場も言い分もわかりますが、ほとんど不敬ですよ」

「申し訳ありません」

「ですがずいぶんと大人になりましたね。遅い反抗期が終わったようで何よりです。フルニエ夫人も安心されることでしょう」


 この人もか、しっかりとバレていた。気まずい表情でエリックは視線をそらす。


 そのときだ、背後から扉を再び開ける音がしてリュシエンヌ・オベール公爵令嬢が部屋を飛び出していく。

 追い詰められたような険しい表情に、淑やかさを完全に捨てた荒々しい足取り。

 すれ違う使用人達が呆然として背中を見送っていた、もちろんエリックもである。

 ああしていると公爵令嬢というよりはただの元気がいいだけのお嬢さんだ。あの不安定さは根となる何かが欠けているからのように思えてならない。

 同じようにその背中を呆れた顔で見送っていたバルトロ伯爵夫人は深々とため息をついた。


「エリック、ここで見たことは忘れなさい。その代わりあなたとフルニエ商会を罰するようなことはしません」

「アデライドもですよね」

「もちろんです。それから、どんな事情があろうと必ず帰宅するように伝えます。まったく、わたしに一言の相談もなく泊まりを受け入れているあの子も大概ですが、通いのはずの侍女に泊まりがけで仕事をさせるなんてオベール公爵やリュシエンヌ様は何を考えているのか」


 よかった、少なくとも無事でいるようだ。

 ほっとしたところで、今度は侍女が奥から走ってくる。


「何ですか、廊下を走るなどみっともない」

「で、ですが、執務室で物がぶつかる激しい音が!」

「ああもう、次から次へと!」


 ここまでくると同情してしまうな。

 バルトロ伯爵夫人は自分にも他人にも厳しく融通がきかないというだけで、決して悪い人ではないのだ。


「とにかくあなたは家に帰りなさい、アデライドもできる限り早く帰るように伝えるから」


 そうエリックに言い置いて、優雅さを損なわない程度の急ぎ足でバルトロ伯爵夫人は廊下の奥へと姿を消す。

 その後ろ姿を見送って、エリックはため息をついた。


 あとは任せるしかないのがつらいところだ。とにかく無事に帰ってくればいいが。


 結果的にエリックの懸念は裏切られることなく。

 アデライドが帰宅し、彼女のほんのり赤みを帯びた肌と小さな切り傷を見て卒倒しかけたエリックが医師を呼ぶ騒ぎになった。


長かったので切りました。お楽しみいただけるとうれしいです。

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