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アデライドの暗躍2


「アデライド、これはどういう意味なのですか。説明しなさい!」


 当主の部屋から戻ったバルトロ伯爵夫人――――侍女長はリュシエンヌを呼びつける。彼女の手には予定表が握りしめられていた。


「何なのですか、あなたの一日の大半を占める書類仕事とは!」

「当主様はなんと申されておりましたか?」

「……っ」

「理由も説明せず『このままで良いのだ』とだけおっしゃられた。違いますか?」


 そして当主という権力を振りかざして有無を言わさず部屋から追い出した、父ならそう誤魔化すだろう。この時間は自分の代わりに当主の仕事をこなしてもらっているのだとは恥ずかしくて言えないものね。

 それを知らない侍女長は冷ややかな眼差しでリュシエンヌを睨んだ。


「教えなさい、今すぐに。でないとあなたは」


 辞めさせるとか、かしら?

 そのとき廊下の角を曲がって侍女が走り寄ってきた。

 

「侍女長、結婚式に出席される予定の方から同伴者を変更したいとの連絡が来ております。それからお嬢様が当日行われる披露パーティーの飾り付けについて、花を追加したいので相談したいと」

「わかりました、今行きます」


 いろいろな苦いものを飲み込んだ顔でバルトロ伯爵夫人はうなずいた。

 そしてリュシエンヌに近づくと耳元でささやく。


「何を企んでいるのか知らないけれど結婚式が終わればすべてを明らかにしてみせます。覚悟しなさい」


 リュシエンヌは深々と頭を下げて伯爵夫人の背中を見送った。

 覚悟とは言ってもね、たぶん次はないわよ。他の侍女達も使用人達も最初は皆そうだった。

 侍女長の仕事に終わりはなく、やがて仕事に忙殺されて違和感にも慣れていく。

 そして違和感に慣れてしまえば調べようとする気持ちすら起きないものよ、だからこれでいい。


「アデライド、シーツの洗濯を手伝ってちょうだい」

「はい、かしこまりました」


 どういうわけか侍女仲間でさえも最近はアデライドと呼ぶようになった。

 アデライドの名が知られるきっかけはセレスタン様だけれど、オベール家にとっても都合が良かったらしい。


 オデットと切り離せるからよね。


 婿入りするセレスタン様は一度だけ、オデット・オベールと呼ばれたころのリュシエンヌと顔を合わせている。だからオデットという名の娘が、侍女として真面目にオベール家で働いていては具合が悪いと考えたに違いない。

 だからセレスタン様の勘違いを利用して、そのままアデライドとして働かせることにしたのだ。父か義母の案だろう、それを使用人達にも周知して。


 本当に昔から悪知恵ばかりがよく働く人達だ。


 わがままで勉強嫌いの礼儀知らず、怠け者で散財しかしないオデット・オベールがどのような末路を辿ったのか。庶民の間では面白おかしく脚色された噂が出回っているそうだ。

 たとえば悪事がバレて国外追放にされた。

 もしくは歳をとった性格に難のある富豪に後妻として嫁いだ。

 または自分が作った借金の清算のために奴隷として売り飛ばされた……など、もっとひどいものもある。

 これって物語に出てくる悪役令嬢の末路ね。

 実際はフルニエ家に嫁いだだけだけれど、結婚式もしていないし披露パーティーもしていないから本当のことが周知されることはないだろう。貴族の結婚を承認する王家だけは知っているはずだけれど、しばらくすればやがて忘れ去られていくに違いない。

 正直なところ、エリック様以外の人にアデライドの名を呼ばれるのは不快で仕方がないけれどね。


「……無理やり押し付けられたようなオデットの名で呼ばれるよりは何倍もマシだわ」


 リュシエンヌにとっても都合がいい。ここから先に待っている企みもやりやすくなる。


 予定表どおりにいつもの仕事をこなして、書類仕事に割り振られた時間きっかりに自室に到着する。鍵をかけて、まずは領地から届いた収支報告書を手にした。これを王家に提出する様式に写して手直しするのがリュシエンヌに与えられた仕事の一つ。

 あらあら、相変わらずね。種はせっせと蒔いているのに、いつになったら気がつくのかしら。

 リュシエンヌは報告書の数字を見て口角を上げる。

 このときはあまりにも順調に事が運んでいてリュシエンヌも油断していたのかもしれない、後になるとそう思う。


 次の日のことだ、長雨の続く領地で川が氾濫したという一報がオベール家を揺るがせた。


 ――――


 オベール家の領地、モルタナは豊かな実りの約束された地だ。

 土地が肥沃で作物がよく育つ。見渡す限り広がる小麦畑と、国の英雄だった初代が褒賞として望み、国が建設したシュルド・ブルセイ水路が有名だ。

 その水路に繋がる川から水が溢れて周辺の小麦畑が水没した。今はまだ水没したのはごく一部だけれど雨量によってはさらに被害が増えるかもしれない。


 そんなまずい状況に、真っ先に動いたのはセレスタン様だ。次期当主であり領主として自ら領地に足を運び被害状況の確認したいと申し出た。最終的には、それに追随する形で現領主でもある父が随行する。

 普通は領主が真っ先に行くものでしょう、それが最後まで渋った挙句に付き添いなんてね。

 本当はリュシエンヌ自ら足を運びたいところだが、今後のことを考えると今動くのは悪手だ。


 それにリュシエンヌには他にもすべきことがある。


 リュシエンヌの現在地は執務室だ。普段ならば当主である父と腹心のヨハン、それから公爵夫人であるメラニーかオデット以外には立ち入りが禁止されている場所にいた。

 領地から届く数々の書類、通常業務に関する報告書関係、金銭的な補填を求める領民からの嘆願書に、修繕費の援助を求める依頼。そのうえ王家からは綿密な被害状況の報告書まで求められている。

 領地の報告書ならセレスタン様に頼めばいいのに。

 ここまで仕事が重なると自室に書類を持ち込む手間すら惜しかった。

 ため息をつきつつ、ただひたすら書類を読み込み、決裁の書類に署名をして。当然、書類を捌く部下などいないから自分で郵送の手配までも行う。

 さすがにこの状況では自宅にも帰れず、泊まり且つ仕事漬けで一週間が経った。

 一応、エリック様には泊まることを郵便で知らせておいたけれど、彼も不在にしているかもしれないので目を通しているかはわからないままだった。

 

「ちょっとー、まだ? ちゃっちゃと終わらせてよ、さっきから手が止まっているわよ?」


 その側でオデットは紅茶を飲み、お菓子を食べて。ドレスや装飾品のカタログを手に暇を持て余していた。嫌味をさらっと無視してリュシエンヌは淡々と書類を捌いていく。

 署名はもちろん、リュシエンヌ・オベールだ。


「あーあ、残念。結婚式が先送りなんて。楽しみにしていたのに!」


 こんな状況でその台詞を口にしたら顰蹙を買うわよ。さすがに呆れたリュシエンヌは顔を上げた。

 この際だ、答えてもらえるかわからないけれどついでに聞いておこう。


「わたしが今、代行している当主としての書類仕事は今後どうされるのです?」


 緊急事態だから手伝いを許されているだけであって下級侍女が業務の補佐をすることはない。

 結婚後、当主として働くリュシエンヌ・オベールを支えるのはセレスタン様の仕事になるのだが、現状では二人が並んで仕事をする姿が欠片も想像できなかった。

 するとオデットは心底不思議そうな顔をする。


「あなたがするに決まっているじゃない」

「……それはどういう意味ですか?」

「本当バカね、あなたの仕事なのだから自分で処理すればいいと言っているのよ」


 この答えにはさすがのリュシエンヌも呆然とした。

 言っている意味がまったくわからない。

 リュシエンヌとオデットはお互いに理解不能なものを見るような顔をして視線を合わせる。


「同じ顔なのだもの、髪を隠せばバレないわ。今までどおり自室で仕事をすればいいじゃない」

「それ、本気でおっしゃっているのですか?」


 それは前提条件としてリュシエンヌがこの家にいればの話だ。


「もちろん本気よ、あなたは死ぬまでこの家に尽くすの。だってそれがオベールの血を引く者の定めだから」


 さも、あたりまえのことのように答えるオデットにリュシエンヌは心の底から恐怖を覚えた。

 リュシエンヌの名を奪い、オベールの姓を取り上げて。それでもこの家に縛りつけるものがわたしに残っていると本気で思っているのだろうか。

 それとも物事があまりにも自分に都合良く運んで正常な判断ができなくなってしまったか。

 うっかりしたら口から出てしまいそうな反論を呑み込んでリュシエンヌは沈黙する。

 この大きな勘違いを正すのはやめておこう。あと数ヶ月したら家を出るつもりだと知られたら、冗談抜きで監禁されるかもしれない。

 静まり返った部屋にノックの音が響いた。


「どうぞ」

 

 人の気配を感じた途端、真面目な顔で椅子に座り直したオデットが応じると扉を開けて侍女が頭を下げた。侍女は積み上がった書類の山と、その山を一心不乱に捌くリュシエンヌの姿に驚愕して目を見開いた。

 オデットは椅子にもたれかかったまま、侍女を軽く睨んだ。


「何かしら、忙しいのだけれど?」

「お、お仕事中に申し訳ありません。フルニエ商会の者が訪ねてまいりまして、その、アデライドに会いたいと」


 エリック様だ!

 リュシエンヌの書類を捌く手がピタリと止まった。表情が変わったことに気がついてオデットがニタリと笑う。


「いいわ、私が会いましょう」

「ですが」

「フルニエ商会の人間と名乗ったのでしょう。ならば次期当主たるわたしが会って何もおかしいことはないはずよ」


 ニヤけた顔のままオデットはリュシエンヌに近づいて耳元でささやいた。


「安心して、女好きのクズ男を追い払ってあげるから。ふふ、それとも逆に口説かれるかしら?」


 そうやってエリック様まで奪う気かと、リュシエンヌは一瞬カッとなった。


「あの方がそんなことはしません」

「あなたが知らないだけで留守の間も女性達と遊び歩いているのよ。相手に見境なく手を出すというので有名だもの」

 

 血が沸騰して逆流しそうだ。ぐっと手を握りしめて唇を強く噛む。

 もう二度とお茶会のときと同じ失態は犯さない。それでは相手の思う壺だとわかったから。


「あんなくだらない男を選ぶなんて人を見る目がないわ。優しくされて舞い上がったのでしょうけれど、簡単に騙されてバカねぇ」

「偏見です、あの方はそういう方ではないのです!」

「どうだか。男なんて皆、単純なものよ」


 金の髪だというだけで、誰もがわたしを信じる。

 耳元で嘲るように笑うオデットは侍女を伴って部屋から出て行った。


 リュシエンヌは誰もいなくなった部屋で抑えつけた熱を吐き出す。

 このドロドロとした、やり切れない感情はなんだろう。

 セレスタン様のときは理解されない悲しみしかなかったけれど、エリック様のときは悲しみよりも不安や怒りを強く感じる。

 

 自分がバカにされるよりも、彼を貶されるほうが腹立たしいなんて……わたしはどうしてしまったのだろう。


 目の前に積み上がった書類を処理しなくてはならないのに、どうにも手が出なかった。集中が切れてしまったのかとリュシエンヌが深々と息を吐いた、そのときだった。

 バンッと激しい音がして扉が開くと、血相を変えたオデットが飛び込んでくる。


「あの失礼な男はオベール家に出入り禁止としたわ!」

「いきなり何ですか?」

「うるさい、平民のくせにどいつもこいつも生意気ね。ふざけるんじゃないわよ!」


 オデットがかつてないほどに荒れている。

 エリック様は相当手ひどくやり返したらしい。彼女は八つ当たりするようにリュシエンヌに向かって手当たり次第に物を投げた。茶器の割れる音が廊下にまで響く。


「どうしたのですか、リュシエンヌ様!」


 血相を変えてバルトロ伯爵夫人が飛び込んでくる。ちょうど机の上にある文箱を振り上げたところでオデットは固まった。そして弱々しい声でリュシエンヌを指す。


「あの女が悪いの、わたしのことをバカにするような目で見てくるから!」

「アデライド、あなたはいつもいつも問題ばかり起こして!」


 リュシエンヌは静かに立ち上がった。

 着ている侍女服は掛かったお湯とインクで濡れて、肌のところどころに陶器の破片で切れた跡がある。書類が散乱して、そのうえにインク壺の中身をぶちまけたから細部まで読めない物まであった。幸いなのは投げつけられたポットのお湯がそんなに熱くなかったというところか。

 まるで幽鬼みたいだ、自分の状況を把握してリュシエンヌは口元を歪める。

 視線が合った彼女はヒュッと息を呑んだ。

 

「この様子を見てもまだ、わたしに非があるとお考えになるのですか?」

「それは」

「侍女長の目には、本当に何も見えていないのでしょうか」


 そこまで節穴なのかしらね。


 リュシエンヌは汚れた侍女服を纏ったまま、固い表情を浮かべる侍女長に一歩一歩と近づいていく。そして目と鼻の先まで近づいてにっこりと笑った。無垢な微笑み、ハッとした彼女は青ざめた。

 リュシエンヌは睨みつけるオデットと視線を合わせる。

 

「お嬢様、わたしの存在が不愉快ならばクビになさる良い機会です。次期当主のあなたにはその権限があることをお忘れですか?」


 オデットはハッとした。そして一瞬不安そうな顔をして黙り込む。

 きっと彼らにとっては痛手になるだろう。しかもじわじわ痛むのではない、一気に瓦解する強烈な手だ。

 そういう終わり方もありだと思ったリュシエンヌはあえて煽るような言い方を選んだ。

 けれど口を開いたオデットが答える前にバルトロ伯爵夫人がさえぎった。


「アデライド、その言い方は不敬です。執務室を片付けたら自室で謹慎していなさい、話があります」

「はい、申し訳ありません」

「リュシエンヌ様もお疲れでしょう。お茶を淹れますから少し休憩なさいませ」


 やはり彼女は何かに気がついたらしい。

 頭の良い人はこちらが言わないことまで勝手に想像するから助かるわ。

 そのままの格好でリュシエンヌは一礼すると部屋を出て掃除道具を取りに行く。すれ違う侍女や使用人達がギョッとした顔をするけれど気にしない。

 現在、この屋敷で侍女にインクとお湯をかける人間は限られているものね。

 こうやって少しずつ、少しずつ、黄金の虚飾は剥がれて落ちていく。

 執務室に戻ると床に広がったインクの汚れを拭って、陶器の欠片を集める。割れたティーセットはお母様のお気に入りの一つだと気がついたときには少し胸が痛んだ。

 汚れた書類については読める部分にざっと目を通して廃棄した。重要な書類も混じっていたけれど領民に影響はないし、困るのは本人達と王家くらいだ。


 このくらい別にいいでしょう。わたしは悪役だから。


 そういう役割を父が、義母とオデットが……今や、オベール家そのものと呼ぶべき人間達が割り振った。

 自分達の蒔いた種が芽吹いた、それだけのこと。


「侍女長が部屋に来たら帰らせていただきましょう。侍女は通いが普通だし、エリック様が心配だから」


 エリック様のことを思うとリュシエンヌの胸の奥が温かくなる。


 出入り禁止になるなんて何をやらかしたのかしら?

 想像して、リュシエンヌはクスッと笑った。

 不器用なのに無謀なことをして、繊細ゆえに後悔するような人だから。

 微妙に手がかかるけれど、それはすべてリュシエンヌのためだった。

 そんなところが憎めないのよ。

 何をしでかしたのかわからないが彼の身を守るためにも情報が必要だ。


 顔と髪を洗い、汚れを落として。普段着のワンピースに着替えたところでノックの音がした。返事をすると、ゆっくり扉が開く。扉の先には相変わらず顔色の冴えないバルトロ伯爵夫人がいた。


「教えて、本当のあなたは何者なの」

「申し訳ありませんが勤務の終了時刻を大幅に過ぎておりますので、このままお先に失礼いたします」


 時間外だもの、質問に答える義務はないわね。

 深々と頭を下げたままリュシエンヌは沈黙を選択する。

 

 ねぇ、エリック様。もう少しだけ許してくれるかしら。

 あなたのそばで、幸せな夢を見ることを。



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