アデライドとマルグリット・バルトロ伯爵夫人
オデットに叩かれた日から二週間と少し。
エリック様の両手がリュシエンヌの頬を包んだ。
「駄目だよ、動かないで」
触れた彼の両手から少しずつ頬に成分が染み込んでいくのがわかる。
医師の治療で傷そのものは治ったけれど、跡が残らないようにと朝と晩に薬効成分を含んだ美容液をエリック様の手で塗ってもらっている。
彼の手は男性らしく骨張っているけれど指は細くて、しなやかだ。
大きな手で丁寧に、ゆっくりと肌に美容液を染み込ませる。冷えた頬にエリック様の手の温もりが心地よい。
うっとりと深く息を吐いて、リュシエンヌはそっと瞳を閉じた。
たしかに弱さは害にしかならない。慈しむような手つきに愛されていると勘違いしてしまいそうだ。
愚かなことと知りながらこんなことを思うのは心が弱っているから、リュシエンヌは自嘲して目蓋を開いた。
けれど思いのほか近くに彼の真剣な眼差しがあって、一瞬呼吸を止める。
彼の吐息がかかって唇が触れそうなほど近くに。
「エリック様?」
ハッと夢から覚めたようなエリック様が頬を染める。
「ごめん、近すぎた」
「いいえ、大丈夫です」
大丈夫じゃない。
この早鐘のような心臓の音が聞こえてしまわないだろうか。
柔らかな手つきでエリック様は傷跡に触れた。
「うん、もう跡は目立たないね。手当てが早かったのもあって傷跡の黒ずみやシミが残らないで済みそうだ」
「何から何までありがとうございます」
彼に熱が出ると言われたら、本当に熱が出て夢と現を二日ばかり彷徨った。
悪夢のときはリュシエンヌだったころの悲しい思い出ばかりを見せつけられて。きっと倒れる直前までセレスタン様と一緒にいたからだろう。あまり覚えていないけれど、うわ言でも彼のことを何かつぶやいていたみたいだし本当に迷惑な話だわ。
その代わり、いい夢のときは必ずどこかにエリック様がいて握った手の温もりをずっと感じていた。
しっかりするんだ、アデライド!
励ますような彼の言葉をきっかけに夢から浮上した。以降は寝て起きてを繰り返しつつ、まずは一週間。その後、傷がふさがって治療が終わったと言われたのが、二週間後のこと。
幸いなことにその間は規則正しい生活を送ることができた。よく眠ったおかげで気分もすっきりしたし、痩せすぎだった体は少しふっくらしている。
「気分はどうだい?」
「とても良いです。今なら何でもできそうだわ!」
「ふふ、それはよかった。ならば、今後の話をしても?」
「はい、もちろんです」
「まず君の意識がなかったときのことだ」
仕事を休んで二日目のことだ。オベール家から補償金だという現金が届いた。どうやらセレスタン様はきっちりと仕事をしたらしい。そしてリュシエンヌがいつ出勤できるかを確認する手紙が同封されていた。金を払ったのだから働くのが筋だろうという趣旨で。
持参した使用人は何も知らされていないようで、ご当主がひどく怒っていると迷惑そうな顔をしていた。
「君の場合、今まで溜まっていた疲れもあって体力が落ちていたとか、栄養不足による免疫力の低下とか複数の要因が重なっていたからね。回復が遅れていたんだ。だから医師の診断書を渡して、意識のない君の様子を直接使用人に見てもらった。想像以上だったみたいだね、青ざめていたよ。ご当主には意識がない状態だが出勤してもいいか聞いてほしいと伝えた。まあ、最後の台詞は完全に嫌味だが」
「よくそれで納得しましたね。いつもなら意識が戻れば這ってでも来いと言いそうなのに」
高熱があろうが、大怪我しようが、リュシエンヌにはいつもどおり仕事をさせていたような人だから。
するとエリック様は皮肉げな顔で笑った。
「それどころではなくなったからね」
「どういうことですか?」
「手紙をもらった次の日、王城から新しい侍女長が派遣されてきたそうだ。彼女はわたしの知っている人なのだが、たいそう厳しくやり手の女性でね。現在も対応にかかりっきりで我々に構っている余裕はないはずだ」
エリック様と顔を見合わせてリュシエンヌはクスッと笑う。
かかりっきりというのは、どうやって誤魔化すかというところだろうな。
「新しい侍女長にはどなたが?」
「マルグリット・バルトロ伯爵夫人だ」
「まあ、自らのお気に入りを派遣されるなんて。王妃様もずいぶんと心配されたようですね」
バルトロ伯爵夫人は優秀な方だと聞いている。自慢の息子が婿入りする先に信頼のおける側近を送り込んだ。王妃の側近を務めるような方だもの、公爵家の侍女長など片手間の仕事だろう。
領地経営を表とすれば、家政は裏だ。彼女を足掛かりに王家はオベール公爵家の裏を把握するつもりらしい。
少しずつ、少しずつ、偽者に施した黄金のメッキ塗装が剥がれかけているのかもしれない。
どこかぼんやりと遠くを見つめるリュシエンヌのそばで髪が柔らかく揺れて、エリック様の手が優しくリュシエンヌの頬を包んだ。
「それで、君はどうする。今の仕事を続けるの?」
「はい、続けます」
リュシエンヌはきっぱりと言い切った。困った顔をしたエリック様は深々と息を吐く。
「そう答えると思っていたけれどね。また傷つくようなことがあればと思うと心配なんだ」
「ありがとうございます」
リュシエンヌだって痛いのは嫌いだ。でも必要だから傷を負った、ただそれだけのこと。
怯えることなく前を向いて毅然とした態度で微笑む。視線の合ったエリック様は呆然とした顔で横を向いた。
「女神かな?」
「え、なんですか?」
「ごめん、何でもないよ。尊すぎて直視できなかっただけだから」
エリック様の頬がほんのり赤い。目元を手で覆って、心持ち震えている。
看病のしすぎで疲れているのかしら?
彼は軽く咳払いをして、真面目な顔をした。
「では明日から働くということでいいね。オベール家には私から連絡を入れておくよ」
「ありがとうございます、よろしくお願いします」
「実はバルトロ伯爵夫人から手紙が送られてきて、君が復帰したら話を聞きたいと言われていたんだ。取り急ぎ、お見舞いのお礼の返信だけは済ませておいた。それでこの後どうするかは君が決めていいよ」
手紙を渡されて、内容に目を通した。さすがだわ、洗練された言葉遣いに文面も気遣いと優しさに満ちている。けれどきちんと伝えたいことや要求は含まれていて。非の打ち所がない美しい手紙だと思った。
もっと勉強して、わたしもこんな手紙が書けるようになりたかったわ。そう思うとほんの少しだけ胸が痛んだ。
「オベール家の連絡に、わたくしからバルトロ夫人への返信を同封することはできますか?」
「もちろん、配達人に頼もう」
急いで返信を書き、手紙を配達人に託して。明日の準備をしようと立ち上がったところで、リュシエンヌの手をエリック様がつかんだ。
「アデライド、食事に行こうか。快気祝いだ」
「いいのですか!」
「この近くに新しく食堂ができたそうだ。内装も凝っているとリオネルが教えてくれた。」
「リオネル様がですか?」
自宅に一度、お見舞いに来てくれた。エリック様の弟で、フルエニ商会の次期商会長。
髪も瞳も同じ色をしているのにエリック様が華やかな印象であるのに対してリオネル様は実直な印象だった。両親も同じ、血の繋がった兄弟でもこれだけ顔の造りや印象が違うのかと新鮮に思ったくらいだ。
そう思うと自分とオデットのように、ここまでそっくりというのは稀なのだろう。
神のいたずらか、偶然とはいえあまりにも似過ぎている。それが彼らの野心に火をつけたのかもしれない。
「どうする、行く?」
「はい、行きたいです。でも」
「お金のことは心配しないで。ちゃんと君が寝ている間も稼いでいるから」
「魔法使いのお仕事ですね」
「おいで、証拠を見せてあげよう」
エリック様が仕事場にしている部屋の扉を開けた。
ハサミと糸と針。それに色鮮やかなレースと飾りリボン、透き通った生地に宝石まで。
美しい物を、さらに美しく仕上げるのもエリック様の仕事だ。別室に広がる光と色の舞踏にリュシエンヌは思わずため息をついた。
トルソーには仕上げたばかりと思われるドレスが掛かっている。レースがふんだんに使われていて、胸元を飾る刺繍もすばらしい。
「これは夜会に着て行くドレス。だから普段使いのものよりも豪華で贅沢な雰囲気に仕上げる」
「本当、魔法みたいだわ」
「魔法が使えたら君の傷なんてあっという間に治せるのに残念だな」
「でもそれではエリック様が頬に触れてくれなくなるでしょう、それは少しさみしいです」
触れてほしいなんて、大胆なことを言ってしまった。
リュシエンヌは恥じたように両手を頬で包んだ。
あの大きな両手に包まれているときは幸せなのよ。忘れかけていた人の温もりを思い出せるから。
「天使……って違うんだ、今のは完全に私が悪い」
なんだかエリック様がいろいろおかしい。突然顔が赤くなったり挙動不審になるのはなんでかしらね。
リュシエンヌが笑うと彼は照れた顔で手を差し出した。
「では行こうか、アデライド」
「はい、エリック様」
彼の声と、言葉で。貴婦人と呼ばれるのが好きだ。
リュシエンヌは弾むような気持ちで温かい手を握り返した。
――――
「さあ、ここだよ」
「すてきなお店ですね!」
リオネル様に紹介された店というのは五分ほど歩いたところにある。
深みのある色合いの壁や扉の装飾が洒落ていて、男性だけでなく女性からも好まれそうだ。
店に入るとちょうど開店時だということで席に座ることができたけれどあっという間もなく満席になる。
賑やかな音楽が流れて、吟遊詩人が人々の喝采を浴びていた。
「人気があるようですね!」
「この店の装飾にはリオネルの調達した商品や素材が使われているそうだ。なかなか評判がいいみたいだよ」
時間をかけて鈍い光沢を放つようになったアンティークのテーブルと椅子。船の模型や錆びた錨の隣に宝箱があって、本物と見紛うような偽物の硬貨や宝石まで山と積み上げられている。
異国情緒あふれる雑貨品が所狭しと並んでいて、どれもこれもリュシエンヌの知らないものばかりだ。
リュシエンヌは、そっと息を吐いた。
「エリック様と一緒にいるときは世界に色が戻るのです。色のない世界が、このときだけは鮮やかに」
キラキラ、キラキラと。
あどけない少女のような無垢な微笑みにエリックの心が締めつけられるように痛んだ。
どのような事情があってこんな状況になっているかわからないけれど、彼女が深く傷ついているのは確かだった。その傷ついた人をエリックは契約で縛ってさらに深く傷つけたのだ、許されるわけがなかった。
「お待たせしました!」
笑顔の給仕が出来立ての料理をテーブルに並べる。
どれもこれも見た目からして美味しそう!
リュシエンヌは料理を堪能しつつグラスを傾ける。果実酒からは芳しい花のような香りが漂う。
ああ、おいしい。おいしいも幸せの一つ。
「アデライド、今は幸せ?」
「ええ、幸せです」
リュシエンヌは迷わずそう答えた。
彼女の曇りのない眼差しにエリックはなぜか泣きそうになる。
なぜ簡単に手放せると考えていたのか、そんなことできるわけがないのに。
今はただこの想像もしていなかった幸せな時間が終わってしまうのは惜しい。
夢見るような眼差しで店内を見回した彼女は、どこか遠くを懐かしむ顔でふわりと笑う。
自分には見せたことのない顔で笑う彼女にエリックは瞳を伏せた。
リュシエンヌ・オベール、オデット・フルニエ、そしてアデライド。今の君は誰なのだろう?
「夢みたいですね、目が覚めるのが惜しいくらい」
彼女を夢の先で待つのは誰か。エリックは聞きたいけれど答えを聞くのがこわかった。
自分ではない誰かの名前が返ってきたらと思うと、どうしても一歩が踏み出せずにいる。
これは結婚という契約を軽んじた自分への罰だ。
「エリック様は、幸せですか?」
「もちろん、幸せだ」
そんな葛藤を知らないリュシエンヌは無邪気な顔で微笑む。
エリックは手を握り返した。
心から幸せだった。これが契約婚だということを忘れるくらいに。
魔法使いとか魔法という言葉が出てきますが、エリックは魔法は使えません。この世界では、魔法は魔女だけが使えるという設定にしています。