後編
ティーノと会うのは、その一度きりではなかった。夜会の翌日、彼がパーチェ家に訪れたのだ。
婚約誓約書を持って。
両親と兄は驚きのあまり、泡を吹いて倒れそうになった。カロリーナも驚いた。昨日の短い時間で、地味で何の面白みもない自分のどこを気に入ったのか、考えてもわからなかった。
しかし、彼は侯爵家で、カロリーナは伯爵家だ。歴史が長くあるわけでも、特別に栄えているわけでもない、むしろ子爵に近い伯爵家だ。家格的にも断ることはできず、カロリーナはティーノの婚約者となった。
大変だったのは、姿勢矯正だ。家庭教師には散々言われていたが、直らなかった猫背気味な背中を正すため、侯爵家から新たに雇われた整骨を学ぶ女性が週に二回、伯爵家に訪れることになった。
初めはその痛さに涙が流れた。生まれて初めて経験する痛みだった。さらに、伯爵家では半ば諦められていた本を頭に乗せて姿勢を保つ練習も始めた。食事中の姿勢にも気をつけ、再び努力を始めたカロリーナを見て、家族も家庭教師も彼女を応援した。
ティーノももちろん、カロリーナを支え、その成果を見て共に喜んだ。
そして、夜会に出向く機会が増えた。挨拶を済ませると、二人で人気のないバルコニーや中庭に向かってお喋りするのがほとんどだが。
あるとき、カロリーナはティーノに尋ねた。自分と出会うまで夜会ではどうしていたのかと。
彼は自分の容姿が騒がれるのが好きではなく、いつも中庭や人の少ない場所に避難していたらしい。
侯爵家でありながら、彼を見かけなかったのは不思議だったので、その答えには納得がいった。
───そしてティーノと婚約して数ヶ月が過ぎた。
長年直らなかった猫背は、コルセットでも隠しきれずにいたが、今ではピンと真っ直ぐになった。
社交界は相変わらず苦手だが、彼と会うときはその意識も少し薄れた。
それまでおどおどと口ごもっていたカロリーナだが、彼には自分の意見を隠さずにはっきり言えるようになった。
友人と呼べる者がいなかったカロリーナに、ティーノを通じて知り合った伯爵令嬢の友人ができた。
「カロリーナとは背が近いから、目を見て話しやすい。すぐ逸らしちゃうけどね」
「会話を急がなくても大丈夫。僕たちのペースでゆっくりでいいから」
「君の栗色の髪も瞳も、僕は好きだよ」
「そのそばかすも、星空みたいで綺麗だ」
何より彼との会話は心地よく、楽しかった。
ある夜会の日、カロリーナはティーノから贈られた、彼の瞳よりも淡いエメラルドグリーンのランタンスリーブのプロムドレスを着ていた。ティーノの色を身に纏っていることが、カロリーナの胸に温かみをもたらしてくれる。
普段は主催者や彼の友人たちに挨拶をした後、二人ですぐに移動することが多いが、その日はティーノが友人のひとりに引き止められた。長引くことを察したティーノはカロリーナに一言謝罪し、二人は珍しく会場で離れることとなり、カロリーナは目立たない壁際へと移動した。
ここに来るのも久しぶりね、と不意に思った。
ティーノと出会う前は、俯いてばかりで気づかなかったが、くるくる回るドレスは綺麗で華やかで、見ていて楽しいものだ。今まで興味を持たなかったアクセサリーたちも、シャンデリアの光に反射して輝いている。
「あら、カロリーナ嬢。ごきげんよう」
「…ごきげんよう」
しかし、折角の気分を害する三人がやって来た。いつもカロリーナに攻撃的な態度をとる令嬢たちだ。彼女たちは扇を広げても怒りを隠しきれない。
「あなた、最近生意気じゃない」
「メルカダンテ様の婚約者だからって調子に乗ってるんじゃないの?」
「あなたにはそんなドレス勿体ないわ!」
カロリーナは、彼女たちの言葉に萎縮しながらも、扇を広げて一歩前へと出た。
「な、なによ…!」
いつもは何も言わず、ただ俯いているだけだったカロリーナのその行動に、三人は思わず動揺した。
そして、近づくカロリーナの高さに驚いた。猫背気味で俯いているためわからなかったが、彼女には彼女たちを見下ろす迫力があった。
「見下してるんじゃないわよ!」
「なによその顔!」
「あなたなんていつも下を向いていて、一生その壁がお似合いなのよ!」
それでも止まらない攻撃に、カロリーナはぎゅっと扇を握る手に力を込めた。
「わ、わたしは…」
「…わたしは、あの方のおかげで背筋を伸ばして歩けるようになったわ」
「もう俯くのはやめたの」
「あの方の隣で胸を張れるように」
長年自身にのしかかっていたコンプレックスの重さを跳ね除け、自信を身に付けたカロリーナは、ただ真っ直ぐと彼女たちを見つめた。その姿は凛としていて、とても綺麗だ。
「カロリーナのくせに!」
そんな彼女を許せずに、令嬢の一人が近くの給仕からワイングラスを奪い取り、カロリーナに向かって振り上げた。カロリーナは咄嗟に目を強くつむった。
しかし、いつまでも経っても覚悟した衝撃はこなかった。恐る恐るカロリーナが目を開けると、ワイングラスを持つ令嬢の腕を掴むティーノの姿がそこにあった。
中の赤ワインはティーノにかかることなく、令嬢のドレスと床を濡らしている。
「メ、メルカダンテ様…!」
「これは!」
「違うんです!」
三人の令嬢は顔を青ざめさせて弁解しようとしたが、当然ティーノはそれを聞き入れなかった。
「何が違うんだい? 僕の婚約者への侮辱は、メルカダンテ侯爵家への侮辱だ。君たちの家には、当然抗議させてもらう」
その言葉に、青い顔がさらに真っ青になった令嬢たちは「申し訳ございません!」と逃げて行った。
「…カロリーナ!」
ティーノはカロリーナに素早く駆け寄り、その両手を握り締めた。その反動で、カロリーナの開いていた扇が閉じた。
「すまない。僕がいながらこんなことに」
「いいえ、…守ってくださり、ありがとうございます」
カロリーナは首を横に振る。彼が謝ることなんてないのだ。
「いや、謝罪させてくれ。君が先ほどの令嬢たちに囲まれているのを見て動こうとしたが、君の言葉が嬉しくて仲裁に入るのが遅れてしまった。すまない」
なんてことだ。あの言葉が彼にも聞かれていたのか。一瞬、彼の腕を振りほどいてこの場から逃げようかと迷ったカロリーナだったが、なんとか足を踏ん張って留まった。
「…わ、わたしは今まで俯いてばかりの、壁の花にさえなれない蕾でした。…でもわたし、初めてしっかりと前を向けました。前よりも自分を好きになることができました。自分の思いを言葉にすることができました」
「それもすべてティーノ様のおかげです。…ティーノ様のおかげで、変わることができたんです」
「ティーノ様はわたしの太陽なんです」
「カロリーナ嬢…」
俯くことなく言い切ったカロリーナの顔は真っ赤だ。自分の言葉への恥ずかしさから急速に萎む勇気だったが、閉じた扇を握る両手に力を込め、なんとかそれを振り絞って膨らませた。
「わたしはティーノ様をお慕いしております」
「─僕も、カロリーナが好きだ。どの大輪の花よりも君が一番綺麗だよ」
ティーノはカロリーナの顔を両手で包んで笑った。
─その手の先、カロリーナの両耳には、虹色に輝く薔薇の花のイヤリングがあった。