前編
カロリーナ・パーチェは、今日も会場の隅で壁の花となり、俯いていた。何か食べる訳でもなく、音楽や会話に耳を傾けることもなく、ただ静かに佇む。彼女は、このきらびやかな場所が苦手だった。栗色の髪に栗色の瞳、顔にはそばかすが散らばり、そのどれもが自分の地味さを際立たせるように感じられる。
装飾や髪型は侍女たちが精一杯着飾ってくれたおかげで華やかだが、周囲の華やかさに対して、自分だけが取り残されているような気持ちになる。幼少期から自身の高身長を揶揄されてきたカロリーナにとって、それはコンプレックスとなり彼女にのしかかり、その重さからか、それを隠すためか、次第に彼女は背を丸めるようになった。
「淑女らしく、もう少し胸を張りなさい」と家庭教師に言われても、彼女にはその自信がない。周囲の視線が怖くて、言葉を発することもできずにいた。
扇を使って口元を隠し、ため息を吐いた。帰りたい。帰れないなら、静かに過ごしたい。その願いも虚しく、三人の令嬢が近づいてきて、声をかける。
「カロリーナ嬢、ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう」
彼女が恥じらうように答えると、令嬢たちは続ける。
「ここだけ空気が淀んでるわね。綺麗な衣装が勿体ないわ」
その猛攻に、カロリーナはただ萎縮するばかりだった。
反撃の機会もなく、ただ黙っているカロリーナの姿を見て、令嬢たちの一人が嘲笑を交えて言った。
「わたくしたちも早くここを離れましょう。折角の花もここでは枯れてしまうわ」
自分に近づかないで欲しい。わざわざ話しかけてくるなんて、よほど暇なのだろう。
カロリーナは心の中で反撃を試みるが、口には出せなかった。
カロリーナは中庭に避難することにした。ここは静かで落ち着ける空間だ。
安堵の息を吐き、周囲の美しい花壇に目を奪われた。赤、ピンク、黄、緑、青、紫といった色とりどりの薔薇が、豪華な邸宅によく似合っている。もっと美しい花を見たくて、カロリーナは足を進めた。
少し歩くと、噴水が見えてきた。ライトアップされていて、先ほどまでいた場所とは違う明るさを放っている。
ふと目を凝らすと、何か大きなものがベンチと共に薄ぼんやりと光に照らされていた。
「幽霊!?」
背筋が凍りつき、カロリーナは思わずバランスを崩して尻もちをついてしまった。
「きゃっ!」
「大丈夫かい!?」
近づいてくる影。カロリーナは恐怖から咄嗟に目をつむり、腕を顔の前で交差して身を守ろうとした。
「ち、近づかないで!」
しかし、抵抗虚しく手首を掴まれた。
「ゆ、ゆうれ───!?あら?」
幽霊ではない──?
叫ぼうとしたカロリーナの声は小さくなり、驚いて目を開けると、逞しい手が自分の手首を握り、目の前には容姿端麗な男性が立っていた。
「手は擦りむいていないね、よかった」 「え?」
男性の声に、カロリーナは驚きながらも自分の手首を掴んでいる彼を見上げ、思わずその美しさに目を奪われた。
「───?頭でも打った?」
「え?あ、い、いえ!」
彼の美しさに見惚れていると、青年が心配そうに顔を覗き込んできた。その瞬間、カロリーナの顔が熱を帯びる。
「大丈夫です!お尻しか打ってません!」
言った後、なんて淑女らしくない返事だろうと気づく。全身が熱くなり、きっと真っ赤になっているに違いない。
青年は彼女の様子を見て微笑んだ。
「ふっ。───いや、失礼」
「いえ!こちらこそ失礼致しました!」
「立てる?」
「は、はい…」
青年はカロリーナの手首から腕を離すと、彼女の背中と膝裏に腕を回し、体を起こした。
立って驚いた。彼は高身長のカロリーナよりも頭一つ分大きい。その青年は屈んでカロリーナの顔を覗き込んだ。
「どこも痛くないかい?」
「は、はい。ありがとうございます」
「それならよかった。驚かせてしまってすまない」
「そ、そんな!幽霊と勘違いしてわたしが勝手に驚いただけですから!」
青年はぽかんとした表情を浮かべ、彼女の言葉に笑い声をあげた。
「ん───失礼」
青年は笑い終えた後、咳払いをした。
「君、名前は?」
カロリーナは自分が名乗っていないことに気づき、慌てて礼を言った。
「カ、カロリーナ・パーチェです」
「パーチェ?と言うことは、君はあの伯爵の?」
カロリーナは頷いた。
「そうです。パ、パーチェ家の長女です。あ、兄はいますが…」
「伯爵令嬢の君がここでなにを?中で踊らなくていいのかい?」
「さ、騒がしい場所が苦手なのです。少し離れたくてここに…。そうしたら薔薇が綺麗でもっと見たくなって、ついフラフラと…」
「そう。僕も騒がしい場所は苦手だ。同じだね」
青年の微笑みに、カロリーナは再び見惚れた。
「─ああ、失礼。僕も名乗らないとね。僕はティーノ。ティーノ・メルカダンテ」
「メ、メルカダンテ様!?」
メルカダンテ侯爵、今日の夜会の主催者である。カロリーナは急に緊張してしまった。
「ティーノでいいよ」
「そんな!恐れ多いことです!」
「僕もカロリーナって呼んでいいかな?」
「そそんな!」
「カロリーナ嬢、これからよろしくね」
「そそそんな~!は、はい…」
カロリーナはティーノの強い押しに負け、頷いた。
外の暗さから、夜会が終わりに近づいていることを感じながら、二人は会場へと戻った。夜会主催のご子息と一緒にいることが周囲の注目を集めるのではないかと心配になったが、再びティーノに押し切られた。
案の定、周囲からの視線は鋭く、帰りの馬車の中では両親と兄からの質問が飛び交い、疲れを感じながらも、彼女の背中は再び少しだけ丸まった気がした。