正解の道(5)
玄関のエクステリアライトに照らされるシーサーは今日も変わらず呑気な表情を浮かべていて、買ってきたお父さんによく似ていた。
どうしてわたしはお父さんに似れなかったんだろう。お父さんのようにおおらかな性格なら、お母さんの報連相攻撃にも耐えられたのかもしれない。
外気に冷やされたチャイムを押す瞬間――遅くなった言い訳を考えるこの一瞬が、なによりも憂鬱だった。指先から伝わる軽いチャイムの音。もっと陰鬱な音色だったら気も紛れるのに、と押すたびに思う。
ゆっくりと扉が押し開かれ、温かみを感じるダウンライトの光が漏れ出る。自宅は明るくて優しいのに、自由のない監獄のようだ。
「ただいま。納品の商品がすごく多くて、遅くなっちゃった」
「おかえり」
立ち塞がるお母さんの横をすり抜けてリビングへ入ると、お父さんはテレビを見ていた。くだらないバラエティー番組だ。若手の芸人が無茶ぶりをされた挙句、滑っている。
お父さんは顔だけを向けて
「おかえり、手洗いしておいで」
と穏やかな声音で言った。
手洗いを済ませてリビングへ戻ると、お母さんはお父さんの向かい側に座っていた。テーブルの上にはホットミルクが三人分用意されている。
我が家は仲の良い家族だと思う。お父さんはおおらかな性格だし、お母さんはいつだって家族のサポートに徹している。日々の食卓を揃って囲むことが難しくても、こうやって暖かい飲み物を囲んで談笑する。わたしが反抗しなければ、示された道を進むことに疑問を抱かなければ、完璧な家族だった。
湯気が立つミルクに息を吹きかけると、穏やかな水面に波紋が広がった。
「こむぎに見てもらいたいものがあって」
お母さんは嬉しそうに言うと、ファイルからパンフレットを数冊取り出した。
「そろそろ三年生になるでしょう? やっぱり安定した就職先といえば公務員だと思って。こういうのは、はやくはじめたほうが有利だから」
差し出されたのは、公務員試験の対策を専門とする学校の入学パンフレットだった。スーツを着た男女を背景に合格率が大きく記載されている。すべての冊子が似たようなデザインで代り映えしない。
「わたし、公務員になるつもりなんてないんだけど」
お母さんはリビングにある本棚の方を向いて、不満げに首を傾げた。
「どうして? 副業がダメだから?」
「そういうわけじゃないけど」
「なら、いいじゃないの。大切なのは安定よ、安定。職場で旦那さんを見つけられたら、もっと安泰。お母さんたちも安心できるし、結婚するまでは家から通えばいいじゃない」
お母さんは「当たり前のことでしょう?」と主張して、お父さんに同意を求める視線を送った。手のひらに包まれたマグカップは、心が冷えていくのを強調するように暖かい。
お父さんはうっすらと髭が生えた顎をさすりながら、わたしに笑顔を向けた。
「働くのはこむぎだから、好きな道に進めばいいと思うよ。だけど、公務員になってくれるなら安心だね。いまのこむぎは、将来どんな職業に就きたいの?」
将来の夢。
幼い頃に描いていた夢はたくさんあったはずだ。幼稚園の先生、パティシエール、国語教師、小説家。どの夢も浮かんでは、シャボン玉のように消えていった。割れたわけではないのに、いつの間にか見失ってしまう。どれ一つとして、わたしが進む道について来てくれなかった。
「それは、まだ……」
視界に映るお母さんの得意げな笑みが気に入らない。
正しい道を示していると誇らしげなのが気に食わない。
だけど、きっとわたしは公務員試験を受けるだろう。合否次第ではあるけど、公務員になる気がする。お母さんが示した道に従わない選択肢は、とうの昔に失っていた。
「……わかったよ。だけど、しばらくは自力で勉強してみるから。それに、行くとしてもどの学校にするか決めないと行けないし」
テーブルに広げられたパンフレットをひとまとめにして受け取り、わたしはヘらりと軽薄に笑って見せた。笑って了承してしまえば、この場は収まる。わたしはよく知っていた。
いつもそうだ。
わたしの目の前にある道のほとんどが進入禁止で、進むことが許されていない。民間企業への道も、たったいま進入禁止に変わった。
「こむぎ、正しい道を選び続けてね。人生は迷子になったら戻れない選択の連続だから、間違ったらダメよ」
「わかってるって。わたしはちゃんと選んでるでしょ?」
――お母さんにとって最善の道を。客観的には正解の選択肢を。
「安心してよ、ちゃんと正解の道を選び続けるからさ」
お母さんの表情が安心から柔らかになる。わたしはこの場において最善の選択肢を選んだ。そこにわたしの意思が反映されていなくても、いかに正解の道を歩き続けるかだけが重要だった。
お父さんがトイレに行くと呟いて、返答も待たずに立ち上がった。背中は昔よりも丸くなり、全体的に老けた。いびきもかくし、枕やワイシャツの襟からは加齢臭がする。それを差し引いても、お母さんにとってお父さんは正解の道だったんだろう。
パンツのポケットでスマートフォンが振動した。少し遅れて、軽快な通知音が響く。開いて確認すると、柊くんからのメッセージだった。
『いいネタが思いついた!』
わたしは、柊くんが羨ましい。同時に尊敬もしている。自分が進みたい道が、どうしてそんなに明確なんだろう。自分で選んだ道を進み続けることが怖くないんだろうか。その道が正解に辿り着くとは限らないのに。
わたしはお母さんの指示に従って、たくさんの道を捨てながら生きてきた。
小学六年生のころに仲が良かった友だち、認められなかった恋人たち、小説家になる夢。
わたしが選ばなかった――選べなかった選択肢。選んでいれば、どんな道に辿り着いていたんだろう。その先の未来を想像することは、とても怖い。ここよりも幸せないまに辿り着いていたらと考えると、後悔の波が押し寄せてくる。ここよりも不幸ないまに辿り着いていたらと考えると、自分で選択することに恐怖を覚える。
わたしに意思なんてもの存在しないのかもしれない。わたしは臆病になりすぎた。この先の道が行き止まりに辿り着けば、全部お母さんのせいだ。他人に責任を擦り付けることができる状況が楽であると知っているから、文句があっても指示通りの道を進んできた。
正しい道は、楽な道で、責任が伴わない道だ。そして、それがわたしの意思だった。
結局、わたしが選んできたんだ。
わたしが、自分で捨ててきたんだ。
手のひらに振動が伝わる。再び暗転していた画面上に通知が入った。まだ返事を返していないのに、柊くんのメッセージを次々と受信する。顔認証でロックが外れると、一斉に既読マークがついた。
『邪道だけど、ダークヒーローもの』
『ちょっと攻めてみた。 迷走するかな?』
『ムギママ、旅行どうだって?』
お母さんが首を伸ばして、画面をのぞき込もうとする。スマートフォンを傾けて拒むと、不服そうに顔が歪められた。
「こんな時間に誰から?」
「柊くん」
こんな時間と言っても、まだ日付は跨いでいない。まして、通話でもあるまいし。
「柊くんと普段はどんな話してるの?」
「別に、面白かったテレビの話とか」
お母さんは見せて欲しいと表情で訴えかけてくるが、画面は絶対に見せられない。柊くんが漫画を描いていることだけは、隠し通さなければならなかった。
「そういえば、柊くんと旅行に行きたいって話になってるんだけど」
「えぇ……?」
お母さんは眉間に皺を寄せて、訝し気な声を上げる。不機嫌と言うよりも困惑の色が強かった。
「あなたたち、まだ大学生なのに?」
「絶対に定期的に連絡するから、お願い」
大学生だから自由に旅行が行けるんじゃないか。もう大学生だから旅行に行きたいんじゃないか。
意見は飲み込む。柊くんだけは選び続けたい。だから、お母さんに柊くんが正解の道だと選んでもらわなければならない。
「柊くんは正解の道だから、手放しちゃダメなんだよ。国立大の工学部生で、優しくて真面目だもん」
自分の言葉に虚しくなった。嘘ばっかり。柊くんは国立大の工学部じゃないし、そもそも大学生ですらない。専門学校生で、漫画やアニメーションについて学んでいて、シングルマザーで、お母さんは男の人に会いに行ったきり帰っていない――
大好きな柊くん。夢を追いかける一途な背中も、柔らかく笑う白い陶器みたいな肌も、矛盾する男らしく骨ばった手のひらも、すべてが愛おしい。
だけど、たったの一度も思わなかったわけじゃない。柊くんが国立大の学生で、工学部だったら……
わたしはなんて愚かなんだろう。自分が選んだ恋人すら、正しさを信じられない。自分が選びたいと思った恋人でさえ、嘘で塗り固めて他人に選んでもらおうとしている。
お母さんはまだ迷っていた。
もし、ダメだと言われたらどうしよう。おとなしく諦めるか、主張を突き通すか。果たして、その選択は正しいのだろうか。嘘をすべて剥したほんとうの柊くんは、正しい選択なんだろうか。
手のひらでスマートフォンが震えた。柊くんからのメッセージだと思う。わたしはもうなにもわからない。自分の選択をどれ一つとして信じることができない。
教えて、柊くん。
あなたを選んだら、わたしを正解の道に辿り着かせてくれますか。
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