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正解の道  作者: 仁科  すばる
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正解の道(4)

 三月十日。

 わたしはすっかり見飽きた百円ばかりの商品に囲まれていた。納品用の大きなダンボールに詰められた商品を店頭に並べ、フェイスアップをして売り場をなんとなく整える。完璧なフェイスアップほど無駄なものはない。どうせすぐに崩される。荒らされると言うほうが正しいかもしれない。 ぽつんと建てられた百円ショップはショッピングモールなどのテナント店舗に比べると、はるかに治安が悪かった。商品の中身を抜き取られてパッケージだけが残されていたり、買い物かごがトイレに迷い込んでいたりすることもある。さらに、そのトイレも意図的に汚されたんじゃないかと疑うほどに汚い。柊くんがいなかったら、とっくの昔に辞めていただろう。


 その柊くんが、とうとう百円ショップを卒業する。あと十分に差し迫る二十一時に退勤したら最後、もう二度と彼のタイムカードは押されない。

 すぐ近くで、わたしと同じように商品を陳列していた柊くんは感慨深く呟いた。

「今日でここともお別れだなぁ」

「さみしい?」

「当たり前じゃん。学生が終わるんだなぁってしみじみ。もう二十日もしたら、少なくとも週に五日は八時間労働の日々だと思うと嫌になるよ」

 アルバイトは四時間労働を週に三回。連絡網に休みたい旨を流せば簡単に代わりは見つかるし、品出しとレジ打ち以外の仕事は特にない。強いて言うならばクレーマーが鬱陶しいくらいのものだった。それさえも、最後には社員が助けてくれる。学生のわたしたちに責任が追及されることなんて、たったの一度もなかった。

 だけど大人はそうはいかないんだろう。わかっているけど、わかっていない。漠然とした大変のイメージが、漠然とした重圧を肩にかける。

「わたしもそろそろ就職のこととか考えはじめなきゃなぁ。お母さんうるさいし。ついに社会の荒波に揉まれるときがやってくるのか」

 柊くんは苦笑する。商品を出しながら、まるでいま思い出したと強調するように「そういえば」と切り出した。

「もうムギは書かないの、小説。高校時代はずっと書いてたんでしょ?」

「いまさらだなぁ。もう辞めてから二年も経つんだよ? 柊くんと出会ったときには、もうすっかり辞めちゃってたのに」

「ムギが書いた小説、そのまま原作にしたいくらい面白かったから。絶対いつかデビューできると思ったよ、もちろんお世辞抜きに」

 柊くんが褒める小説は公募の一次ですら通過できなくて、それでも諦めきれずにネットに掲載したものだ。投稿サイトでの閲覧数は少ないし、評価も高くない。わたしなんて、所詮はその程度の力量だった。

 だけど確かに、あのころのわたしは小説のことばかり考えて過ごしていた。付箋だらけのアイデア帳、家に眠る落選した原稿、二日に一冊のペースで貪欲に作品を吸収する日々。

 それでも、足りなかった。時間も、才能も、経験も。なにより――

「辿り着く先が行き止まりだって知ってたから」

「行き止まりって……」

 柊くんは苦しそうに表情を崩した。

 言い方が悪かったかもしれない。商業作家を目指している彼の道も行き止まりだと言っているように聞こえるかもしれない、と言葉を改めた。

「ほら、お母さんも反対してたしね。わたしが小説を書くと機嫌が悪くなるの、それはもう誰が見てもわかるくらいあからさまに」

 あの道は、わたしの夢の先は行き止まりだった。いや、進入禁止だった。お母さんが進入禁止の標識を掲げたが最後、進みたくても進むことができない道へと変わり果ててしまった。

「だからもう疲れちゃって。才能も熱量もその程度なら、はやいうちに諦めちゃおうって。作家業みたいな食べていけない道なんて、さっさと諦めたほうがいいでしょ」

 段ボールに詰められていた同じ文具メーカーの商品を並べ終え、わたしはポケットからカッターナイフを取り出す。空っぽになった段ボールの溝に刃を差し込むと、安物の刃先は引っ掛かりながらガムテープを割いていった。

「それに、いまは柊くんがいてくれるから。わたしの代わりに柊くんが夢を追いかけてくれるだけで、満足なんだよ」

 段ボールを畳みながら笑顔で顔を上げると、ようやく柊くんは安心したように笑った。まだ三分の一ほど残っている彼の段ボールの中から、二十個入りのものさしの袋を取り出す。

「ほら、はやく終わらせて一緒に帰ろう」

 ものさしで引いた線のように真っすぐな柊くんの道は、いったいどこで行き止まりに辿り着くんだろうか。

 誰にも止められることのない柊くんは、どこで行き止まりに気が付けるのだろう。

 


 店から出ると、柊くんは駐車場の隅を嬉しそうに指さした。薄暗闇の中でぼんやりと光を放っているのは、セブンティーンアイスクリームの自動販売機だ。

「アイス? まだ寒くない?」

「寒い中で食べるからいいんじゃん。ムギのも買ってあげるから、一緒に食べようよ」

「柊くんが買ってくれるなら食べる。プレミアムのやつ食べてもいい?」

「いいよ。ムギがプレミアムにするなら、オレもそうしよ」

 柊くんはわたしの手を握ると、繋いだ手を振り子のようにゆっくりと揺らした。二階の窓から漏れ出た光が、地面にくっきりと模様を作る。誰かに覗かれている気がして、わたしはなんだか恥ずかしい気持ちになった。柊くんのことが大好きで、恋人であることを隠す気はないけど、恋人らしいところを見られたり想像されたりすることは嫌だった。


 夜中に手を繋ぐ恋人たちを見ると、わたしはいつも決まって「この人たちはいまからセックスをするんだろう」と、曖昧な妄想を繰り広げる。処女だから具体的な妄想にはならない。ティーン漫画やアダルトビデオで見た知識が限界の、所詮はモザイク処理が施された妄想止まりだ。

 そんなことを考えているのはわたしだけかもしれないけど、他人に柊くんとのセックスを想像されるのが不快で、知り合いには恋人らしいところを見せてこなかった。

 見られたくないけど、この手を離すのも違う。そんなことを考えていると、柊くんのほうから手を離された。さっきまで体温があった場所に、三月のまだ冷たい空気が入り込む。少しだけ名残惜しかった。

「オレはクッキーアンドバニラだな。ムギはどうする?」

 柊くんは紺色のサコッシュから財布を取り出し、釣銭機に千円札を入れた。

「わたしはラムレーズンがいい」

 柊くんは、クッキーアンドバニラを押して落ちてきたお釣りを受け取ると、戻ってきたうちの二百円でラムレーズンのボタンを押した。受取口にしゃがみ込んだ柊くんのつむじが、なんだか愛おしい。

「はい、どうぞ」

「ありがとう。このアイスって懐かしいよね。小学生のとき、水泳の帰りに食べなかった?」

「懐かし! たまにお父さんが迎えに来てくれたときだけ『内緒なって』買ってもらってたなぁ。母さん、ご飯の前におやつ食べたら怒るから」

 柊くんは一等優しい表情を浮かべて、クッキーアンドバニラに噛り付いた。

「わたしも怒られてたなぁ。アイス食べたくらいじゃ、小学生のお腹は満たされないのにね」

「しかも、水泳終わり」

 わたしの分を買うためのタイムロスがあったせいか、柊くんのアイスクリームは歯型の部分から溶けはじめていた。

「あっ」

 指先を伝い落ちていくアイスクリームを舌で舐めとって、柊くんは曖昧な笑顔で誤魔化した。そうやっている間に、また次の一滴が溶けていく。

 ちろりと覗いた赤い舌に触れてみたい。

 気が付くと、わたしは手を伸ばしていた。柊くんの舌先に、アイスクリームに冷やされて赤くなった先端に、わたしの指が触れている。

 冷たくて生温い、柔らかくて弾力がある。その感触は一瞬で離れていき、柊くんは目を見開いたあと、わたしの好きな悪い男の人の顔を浮かべた。わたしはバイト先の駐車場にいることなんてすっかり忘れて、ゆっくりと近づいてくる唇と舌先を受け入れようと身構えていた。

 だけど、柊くんは予想とは少し違う、そっと触れるだけのキスをした。

「アイス溶けちゃうよ」

 まだまっさらな状態のラムレーズンの表面を指さし、柊くんは悪戯に口角を上げて笑う。

 わたしが指さしされたラムレーズンに噛り付くと、すでに溶けはじめていたようで綺麗な歯形はつかなかった。唇に触れるひんやりとした感覚を楽しむ余裕なんてあるはずもなく、口の中でレーズンを転がして意識を逸らす。そうしている間に、指先に溶けたアイスクリームが伝い落ちていった。舐めとろうと舌を出すと、温かく固い感触が触れた。

「仕返し」

 わたしが慌てて舌を引っ込めると、柊くんはたっぷりと間を持たせて言う。

「来週あたりにさ、一泊二日くらいでオレの卒業旅行。温泉とかよくない?」

 心臓が跳ね上がり口から飛び出してしまうんじゃないかと、本気で焦るほど激しい動揺だった。

誰にも邪魔されず、終電の時刻に追われることもない。温泉旅行の誘いは、イコールでセックスのお誘いとも捉えられた。柊くんにそういう意図があるかどうかはわからないが、わたしたちは恋人で、プラトニックを維持できるようなピュアな人間でもない。

 わたしは未だ治まらない鼓動とは裏腹に、努めて平然を装う。そして、何気なく出てきた言葉こそ、わたしたちにとって一番の問題だった。


「お母さんに聞いてみる。また連絡するね」


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