正解の道(3)
時刻は十八時を少し過ぎている。
冬の日は短く、辺りはすっかり暗闇に包まれていた。
アパートの廊下に設置された蛍光灯には小虫が群がり、黒い斑点模様を浮かばせる。二階の角、お父さんが沖縄土産として買ってきたシーサーが並んで座る玄関のチャイムを鳴らす。ポーンと軽い音が指先に伝わり、まもなくしてドアロックが解錠された。
出迎えたのはパートから帰宅していたお母さんだ。「ただいま」と上っ面の笑顔を浮かべるが、「おかえり」の言葉は返ってこない。そのくせ、決して広くない玄関を塞ぐように立っているので、部屋に入ることも許されなかった。ただ黙って、なにかを待つようにわたしの顔を見つめている。
わたしは、お母さんの言いたいことがわかっていた。ただ、反発心が自発的な言葉を生みだそうとはしない。我慢比べのすえ、睨み合いの膠着状態を解いたのはお母さんのほうだった。
「日曜のシフトは正午までじゃなかったかしら?」
「ご飯食べてから帰るって、ちゃんと連絡したと思うんだけど。既読も付けてたよね?」
「誰と、どこで、いつまで。最低限これだけでも伝えないと、連絡したうちに入らないのよ。それに、ご飯を食べるだけなら、こんなに遅くはならないでしょう?」
はいはい、鬱陶しい――心の中で吐き出し、それでも抑え込めなかった苛立ちが、鼻から嘲笑という形で溢れ出た。
「柊くんと、駅前の喫茶店でいまさっきまで。遅くなったのは話が盛り上がったから。これでいいでしょ?」
お母さんはいまだ釈然としない様子だが、彼女の不満の根源はわたしがスケジュールを事前に連絡していなかったことなのでいまさらどうしようもない。過去に戻ることはできないし、こういうときはなにを言っても険悪になるのが目に見えている。二十歳になった娘の予定のすべてを管理しないと気が済まないなんて、メンヘラの彼女かよ。
異性と旅行なんてもってのほか、なにがあっても終電は逃すな。行き先と解散時刻はは詳細に言え。行き過ぎた過保護に従うわたしもどうかと思うが、おかげで二十歳をすぎたいまもなお処女を守り抜いてしまっている。変なところで真面目な柊くんとは、そんな話になったことすらないけど。
「それで、柊くんはどこに就職しようとか、ちゃんと考えてる子なの?」
何回目だよ、その質問。そう思いつつ、最善の返答を考える。
「まだ二回生だよ? わたしも考えてないのに」
「だって、未来の旦那さんになるかもしれないじゃない。でも、国立の工学部でいい成績なんでしょう? なら将来も安泰よね」
柊くんと出会って一年半、関係が恋人に変わったのはちょうど一年前になる。旅行もお泊りも許して貰えないような関係性なのに結婚。どの時代の話だよ。笑わせないで欲しい。
喉元まで出かかった文句をすべて飲み込んで、へらりと軽薄な笑顔をつくる。笑いさえすれば、ひとまずこの場は収まる。
「そうそう。大丈夫だから、柊くんのことは黙って見守ってて」
「わかってるけど、こむぎも考えておきなさいよ。就職と結婚は人生における最大で最後の分岐点なんだから」
適当な相槌を打つ。洗面所に向かおうと足を進めると、「ねぇ」と玄関から呼び止められた。足を止め、振り返らずに耳だけ傾ける。お母さんは続けた。
「わかってるとは思うけど、変なことはしちゃダメよ。まだ学生なんだから、結婚するまではダメ」
曖昧な返事をして、洗面所のドアを閉める。
鏡に映ったわたしと視線が交わると、どちらからともなく笑いが込み上げた。すでに成人している娘のセックスに自ら口を出す親がどこにいるんだよ。いや、ここに居たわ。なにも面白くない。それでも腹の底からの笑いが止まらなかった。
いつもそうだ。わたしに恋人ができるたび、お母さんは決まって口を出した。
どんな子なのか。
どれくらいの成績なのか。
親御さんはどうか。
兄妹構成はどうか。
ルックスは悪くないか……?
確かに、どれも大切なことだとは思う。わたしだって、性格だけを見て選ぶほど純粋な心は持ち合わせていない。だけど、お母さんはおかしい。お母さんが望む条件からたったひとつでも逸脱してしまえば、もう恋人としては認めてもらえない。少なくとも、いままでの恋人は理不尽な理由で認めて貰えなかった。
「その子が相応しいとは思えない。間違った選択よ、こむぎが幸せにな道を歩けなくなっちゃう。お母さんは心配して言ってるの」
進学先がダメ、長男だからダメ、身長が子どもに影響するからダメ。その選別にわたしの好意は関係しない。
一つ大人に近づくたび、お母さんの示す道が正しいとは思えなくなっていった。お母さんの意思に左右されたあべこべの道標。お母さんにとって都合のいい道。そんなことくらいとっくに気が付いているのに、どうしても従う道を選んでしまう。
たぶん、わたしにとってお母さんは道路交通法で絶対守るべきものだから。きっと、これからもずっと重んずべき法律だから。