正解の道(2)
小説家になりたかった。
氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを啜っていると、ふと昔の夢が蘇った。店内に流れている音楽が、ちょうど小説を原作とした映画の主題歌だからかもしれない。
実写は嫌いだ。未読ならば俳優さんでイメージが固定されてしまうし、既読なら解釈違いに腹が立つ。シーンのカットも許せない。無駄なオリジナルキャラクターも嫌。外に文句を零すことはしないが、わたしは実写拒否過激派だった。
だけど、わたしが書いた物語が小説として世に出て、人気を博したのちに実写映画化する。そんな妄想をするくらいには小説家になりたかったし、実写化されるような物語を生み出したかった。
すべて、過去の遠い夢の話だけど。
「――ねぇ。ムギってばちゃんと聞いてくれてる?」
向かいに座った恋人の柊くんはそう尋ねると、食べかけのワッフルをつついた。
「ごめん、あんまり聞いてなかった。もう一回だけ言って」
「だから、持ち込みの結果だって」
柊くんは歪みのない唇を突き出すと、悔しさが急速解凍されていくのを食い止めるように天を仰いだ。暖かいオレンジ色の照明が、滲んだ涙に光を纏わせる。
柊くんはわたしと同じ二十歳だけど、芸術系の専門学生で漫画家を目指している。恋人の欲目を抜きにしても、彼の書く漫画は面白いし絵も綺麗だと思う。だけど、
「また、今回もダメだった」
どうやら、それだけではダメらしい。編集に出会うまでの道のりは小説家よりもオープンなようだけど、デビューへの扉を潜り抜けることができるのは一握りにすぎない。どの分野においても商業作家への道のりは、狭くて険しい。
「ちなみに講評は?」
「絵柄は悪くないけど、どこにでもありそうな内容だって。少年誌で純愛ものなんて、いまどき難しいって言われた」
「なにが足りないのかなぁ……、じゃあ次はエログロバイオレンスとかどう?」
「それも定番だから、オリジナリティーを出すのに工夫しないとなぁ」
柊くんは考え込み、上を向いたり下を向いたり。汗をかいたアイスコーヒーのグラスを握り締めては、うなり声を漏らした。
漫画のことを考えて前向きに悩む姿、付箋だらけのアイデア帳、家に眠る没になってしまった原稿。執筆に夢中になるがあまり、デートに遅刻してきたことだって何度もある。そのたびに、大学の友だちからは「甲斐性ない男はやめておけ」と忠告を受けてきた。
だけど、わたしは柊くんを構成するすべての要素が好きだ。暴力的なまでに無邪気で自由な姿は、わたしが選ばなかった道だからこそ、青く光り輝いて見える。
「就職したくないなぁ」
「専門は二年しかないもんね。もう卒業かぁ」
「卒業しても漫画は辞めないけど、やっぱり仕事を優先しないといけないときもあるだろうし」
やりきれないと嘆く柊くんの就職先は、地元の食品メーカーだった。下積みとしてアシスタントになる道もあったはずだけど、選ばなかった。
いや、選べなかったのかもしれない。
お父さんがすでに亡くなっていて、お母さんは若い男の家に入り浸りでほとんど帰っていない。おじいちゃんの遺産とおばあちゃんの年金だけを頼りに、崖っぷちの危ない道を歩いている。漫画家への一本道が行き止まりに通じてしまったとき、柊くんはいよいよどうしようもなくなる。それを危惧したのかもしれない。どちらにしても、彼自身が選択した道に文句を言っていい権限をわたしは持っていない。
「困ったときはわたしを頼ってね。役には立てないだろうけど、気晴らしくらいにはなりたいな」
「ありがとう。ムギのことすごい頼りにしてる。ムギも困ったら、オレのこと頼ってよ」
柊くんは柔らかく微笑むと、骨ばった大きな手でわたしの頭をゆっくりと撫でた。中性的な顔立ちに、はっきりと男の子だとわかる身体つき。その矛盾を感じるたび、お腹の奥底がむず痒くなって暖かい幸福に包まれた。