第1話 餞別は女神の加護
大きなリュックサックを背負った少年と少女。
2人は名残惜しそうに、塗装の剥げた鉄製の門の前で、その奥にある古びた建物を見上げていた。
門の横のレンガ造りの塀には『メゾンアデライド』という文字が彫られた木製の表札が掛けられている。
メゾンアデライドは、ロワン王国の南に位置する綺麗な海に面したリゾート街『エデルヴィス』の外れの森の中にある小さな孤児院だ。
2人が育った思い出の場所……だったが、18歳の誕生日を迎えた彼らは今日この日、この家を巣立った。
「いいの? ママンにも挨拶しなくて?」
心配そうな顔で隣の少年に聞いたのは赤いロングヘアの少女。オルタンシア=ルージュガーランス。
「いいんだよ。昨日散々お礼言っただろ? それに……ママン見てると……その……」
言いよどみ俯いた水色の髪の少年の名はロゼ=ブルークレール。
「寂しくて泣いちゃうもんね、ロゼ」
「お前もだろ! オルタンシア!」
恥ずかしそうに顔を赤くしてロゼが言うと、オルタンシアはくすりと笑った。
「それよりさ、本当にいいのかよ、オルタンシア。嫌なら無理に付いて来なくても」
「はぁ? 今更何言ってんの? 私、ずーっと前から『冒険者』になるって覚悟決めてたんだよ? ロゼが誘ったから」
18歳になると、街にある『冒険者ギルド』で冒険者としての登録ができるようになる。メゾンアデライドも18歳になったら自分の進路を決め卒園する決まりになっていたので、ロゼと幼馴染のオルタンシアは以前から2人で18歳になったら冒険者になろうと約束していた。
冒険者はこの世界では大金が稼げる立派な職業だ。それに世界中を飛び回る事もできる比較的自由な職業でもある。
だから2人はそんな冒険者になる事を夢見ていた。
しかし、ロゼはオルタンシアが嫌々付いて来てくれたのではと、いざ出発という今になって急に心配になってしまったのだ。
「いや、そうだけど、冒険者って危険じゃん? 死ぬかもしれないし……女の子のお前が怪我でもしたら」
「馬鹿にしないでよ! 私の方がロゼより歳上だからね? 喧嘩だってロゼに勝ち越してるし! スキルだってきっとめちゃくちゃ凄いの持ってるんだから! ギルドでの検査が楽しみだね!」
「は? 同い歳だろ! 喧嘩の戦績も俺の方が勝ち越してる! スキルなら俺の方が凄いに決まってる!」
「違うね! 私の方が2ヶ月早く生まれてるからお姉さんだもん! 喧嘩だって──」
「やれやれ、これじゃあ先が思いやられるね」
2人の口論を遮ったのは、優しそうな笑みを浮かべた婦人。白髪混じりの頭のその婦人は小さな1人の男の子と手を繋いで建物の方からやって来た。
「ママン……」
その婦人はロゼとオルタンシアにとっての育ての親、メゾンアデライドの責任者でもあるメール=アデライド。15人いる孤児たちをたった1人で面倒を見ている女性だ。
鉄の門の格子隙間からその慈愛に満ちた柔らかな表情が見て取れる。オルタンシアは堪らず目を逸らし唇を噛み締めた。
「見つかっちゃったか。バレないようにこっそり出て行こうと思ったんだけど」
気まずそうにロゼは頭を掻きながら答える。
子供を連れたメールは、門を隔てたところから、ロゼとオルタンシアに微笑んだ。
「あたしもね、子供たちに見付からないように来たんだけど、テオには見付かっちゃってね」
メールは左手で握った小さな手の主を見ながら言った。まだほんの3歳の男の子だ。
「ロゼおにいちゃん、はやくもどってきてね」
たどたどしい言葉で幼いテオは言う。この子はロゼとオルタンシアが旅立つという事が理解できていない。またすぐに帰って来ると思っているのだ。きっと他の小さな子たちもそうだ。昨日ロゼの18歳の誕生日パーティー兼お別れパーティーをやった時も、ある程度の年齢の子たちは別れを惜しんで泣いていたが、5歳に満たない子供たちはそのパーティーに悲しみの感情は持たず、ただ単に楽しんでいた。無理もない。両親に捨てられ、或いは先立たれてしまった事さえ理解していない彼らにとって、親しい人との別れなどまだ知る由もない事なのだから。
ロゼはテオと同じ視線まで屈んだ。
「テオ、俺とオルタンシアはちょっと遠くまで出掛けて来るから、当分戻れない。けど、いつか絶対戻って来るから、それまでママンや他のお兄ちゃんお姉ちゃんたちの言う事をちゃんと聞いて、お利口にしてるんだぞ? いいな?」
「わかった」
テオは小さな左手で親指を立てて見せた。
ロゼも親指を立ててテオへ笑みを見せる。
「オルタンシアおねえちゃん、かえってきたらまたおっぱいのませてね」
「え?」
テオが言葉を間違えたのかと思ったが、当のオルタンシアは赤面して赤い髪を弄りまくっている。
「ねえ、おねえちゃん、おっ──」
尚も強請る幼きテオの小さな口をオルタンシアは急いで押えた。
「オルタンシア……お前、そんな事してんの?」
引き気味に立ち上がりながらオルタンシアを見るロゼ。確かにオルタンシアの胸はどちらかと言えば大きい。だがまだロゼと同じ18歳。何かの間違いだと願いたい。
「するわけないでしょ? 変態!」
「いや、変態って俺は別に──」
「テオ君、おっぱいってあれだよね、哺乳瓶でミルク飲みたいって事だよね? でももうテオ君はミルク卒業したでしょ? ね?」
しかし、テオは恋しそうにオルタンシアの胸を見つめ指をさす。
「……ママン……何とかして」
突然の羞恥に戸惑いながらメールに助けを求めるオルタンシア。メールはやれやれと首を振りながらテオの頭を撫でた。
「ほらテオ。もうお兄ちゃんもお姉ちゃんも出掛けるから。バイバイして中に戻って皆と遊ぼっか」
「わかった、あそぶ」
テオの興味が逸れてホッと胸を撫で下ろし立ち上がるオルタンシア。ロゼはそんな幼馴染の慌てふためく姿を見て笑いを堪えるのに必死だった。
「ああ、そうだ、ロゼ、オルタンシア。あなた達に渡したいものがあったんだ」
そう言うとメールは目を閉じ、ロゼの頭に右手、オルタンシアの頭に左手をポンと乗せた。心做しか温かさを感じる。メールは時折こうしておまじないと称し頭を撫でてくれる。
「女神様の御加護だよ。2人が大変な目に遭った時、必ず護ってくださるから」
ロゼはメールの好意をありがたく受け取った。オルタンシアも満足気な顔をしている。
「ママン、いつもメガミさまっていってるけど、ぼくいちどもみたことないよ」
テオにはおまじないというものは早いのかもしれない。おまじないなのだから見えなくてもいいのだ。これはメール=アデライドの愛なのだから。
「テオ、女神様は目には見えないけどちゃんといるんだよ。良い子にしてたら女神様からご褒美が貰えるかもしれないよ。さ、ロゼとオルタンシアにバイバイしようね」
「バイバイ、ロゼおにいちゃん。オルタンシアおねえちゃん」
テオは小さな手をロゼとオルタンシアへ振った。2人は笑顔で振り返す。
「気を付けてね。ロゼ、オルタンシア」
「行ってきます、ママン。今までありがとう」
「お世話に……なりました」
しっかりと挨拶をしたロゼに対し、オルタンシアは嗚咽を漏らすのを抑えきれなかった。そんなオルタンシアの肩にロゼは手を置いて回れ右させると、それ以上振り返らないように足早にその場を後にした。
「ママン、どうしてないてるの?」
「泣いてなんかいないよ。さ、戻ってアップルパイでも焼こうかね」
「あっぷるぱい、ぼくだいすき!」
背後で無邪気な笑い声が微かに聞こえた。
もうしばらくはそんな声も聞けないだろう。
隣でいつまでも啜り泣くオルタンシアと共に、ロゼはエデルヴィスの街の市街地にある冒険者ギルド『ローズドゥノエル』を目指し旅立った。