表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

現代短編

家族写真

作者: 糸木あお

 わたしはずっと幸せな子どもだった。16歳になるまで鍵を使ったことが一度もなかった。いつでも家には母がいて、おかえりと言ってくれた。母がいなくなるなんて、父も弟もわたしも夢にも思わなかった。母はいつでも家にいて、優しく笑う。いいにおいの洗濯物。美味しいごはん。ピカピカの窓ガラス。今ならわかる。母はずっとこの生活が嫌だったんだろう。


 その日は春のわりに暑くてたくさん汗をかいたので家に帰ってすぐシャワーを浴びようと思っていた。玄関のドアを開けようとしたら鍵がかかっていた。あれ? わたしの帰宅時間にはいつも母がいるのにおかしい、と思った。鍵は自室の机の引き出しの中だし合鍵の置き場所も特に決まっていなかった。仕方がないので家電にかけても留守番電話のメッセージが流れてくるだけだった。わたしは苛立ちながら母の携帯に電話をした。けれど、お客様のご希望によりおつなぎ出来ませんというアナウンスが流れた。その無機質な女の声がわたしを余計に苛つかせた。どうしていないの? こんなことは今まで一度もなかったのに。


 その後、父の携帯に電話をしても出なかったため父の勤め先に電話をかけた。父は最初仕事中に連絡がきたことに少し苛立っているようだったが母がいないことを伝えると気分転換に出かけてるんじゃないかと暢気に言った。鍵を持っていないので家に入れないと伝えると定時で上がるから弟と合流してどこかで時間を潰していてと言われた。一応、弟の防犯ブザー兼キッズ携帯にも着信を残しておいた。弟の小学校に着くとサッカー部の子ども達が真剣な顔で練習をしていた。


 その中に赤いユニフォーム姿の弟を見つけて声をかけた。


「おーい! 敏春としはる


 弟はこちらに気付いてからとても渋い顔をした。それでも一応駆け足でこちらに来た。


「姉ちゃん、恥ずかしいから来ないでって言ったじゃん」

「ちゃんとできてたよ?全然恥ずかしくないって」

「違うよ!姉ちゃんの存在が恥ずかしいんだってば! 」


「それより敏春、家の鍵持ってない? 」

「え? 鍵なんか持ってないよ。お母さんいるでしょ? 」

「いないから困ってるのよ」

「えっ? そんなことってあるの? なんか事件か事故にでも巻き込まれてんじゃないの?」


 母の不在を伝えると弟も驚いていた。それだけ母が家にいないと言うのは異常事態なのだ。常にあると思っていたものがなくなると居心地が悪い。例えば、寝るときにいつも抱きしめている蟹のクッションとか近所の練り切りとみたらし団子が美味しい和菓子屋さんの招き猫がなくなったらなんか変だな、おかしいなと思うだろう。母の不在はそれだけわたしたちにとって想像もしないことでまさに青天の霹靂だった。


 半袖短パンのユニフォームから半袖短パンの私服に着替えた弟とわたしは近所のファミレスに来た。弟の学校では寄り道は禁止だけれど今日は姉であるわたしもいるし多分許されるだろう。ドリンクバーと大盛りポテトフライを注文して飲み物を取りに行く。弟はメロンソーダ、わたしはオレンジジュース。ドリンクバーがあるとついつい全種類飲みたくてチャレンジしてお腹がタプタプになる。半分くらいの種類を飲んだところで次を取りに行くのをやめる。弟はいい子ちゃんなので2杯目まではメロンソーダでそのあとは烏龍茶とか緑茶を飲む。母が甘い炭酸をたくさん飲むのは身体に悪い、と言うからだ。


 わたしはそんなのは気にせずいろんなジュース同士を混ぜるしコーヒーにガムシロップとミルクを2個ずつ入れる。母はそういうのを見ると顔を顰めたしあんまりジャンクなものを食べるのを良しとはしなかった。母方の祖父母はもう亡くなっているので母がどういう風に育ってきたかはわからない。けれど父方の祖父母はかなりいい加減でわたしが1歳半の時には自分が食べていたあんぱんを食べさせていたらしい。その原体験によりわたしはあんこが大好きで羊羹お汁粉おまんじゅう練り切りなどの和菓子が大好きだ。もし、最後の晩餐が選べるというのなら、あんぱんと牛乳という張り込みスタイルの食事をお願いしたいと思う。


 わたしがドリンクバーで取ってきたカルピスとコーラを半々で割ったものを飲んでいると弟は思いっきり嫌そうな顔をした。彼はお上品なので味が混ざるのが嫌いなのだ。だからポテトについてるケチャップとマヨネーズを混ぜたりしたら多分キレるだろう。わたしは混ぜるのが好きだけど優しい姉なのでそれは我慢した。


 ドリンクバーでお腹はいっぱいだったけれど居座ってるのに追加で頼まないのも良くないと思ってイチゴのパフェを頼んだ。弟はバニラアイス。パフェは味が混ざるから嫌いらしい。家で中華丼やカレーが出てくる日は弟だけ具が別皿に分けられていたし、母はいつもそういう気の使い方をしていた。


 何の疑問も持たずに母の優しさを享受してきたけれど、母はどういう気持ちでそれをしていたんだろうか。目に見える報酬があるわけでもなく、大袈裟に感謝されることもない。こだわりの強い息子と少しだけ落ち着きのない娘、そして家事育児を全くやらない夫。もしかすると血の繋がりと義務感で動いていたのかもしれない。結婚する前は母は通訳としてバリバリ働いていたらしい。それを聞いた時、全く想像が付かなかった。わたしは母が家の中を完璧に整えてバランスの良い美味しい食事を作り、優しく微笑んでいる姿しか知らなかった。母は母でそれ以上でも以下でもなかった。でも、友人の母はもっと雑というかフレキシブルというか柔軟性があった。でも、うちの母にはそういったものはなくてただただ正しく完璧だった。


 1時間後、わたしたちは父と合流した。父は坦々麺とビールを注文してそれを10分で食べ終えた。流石に鍵は持っていたらしい。ワイシャツに坦々麺の汁が飛んで、赤い小さいシミが出来ていた。母ならきっと完璧にシミ抜きするだろうけど多分父は汁が飛んだことすら気付かない。トイレットペーパーのロールも変えないようなズボラな人なのだ。


 食事を終えた父と一緒に帰宅してわたしはやっとひと息ついた。家の中は暗く、母は戻ってきていなかった。一応父方の祖父母と母方の叔母にも連絡したがそちらに行っていないようだった。父はあいまいに笑いながらこう言った。


「お母さんは多分、気分転換に家出したんだと思う。まあ、しばらくしたら帰ってくるだろうから気長に待とう。なんなら明日になったらごめんなさいって言って戻ってくるかもしれないよ」

「でも、あのお母さんが気分転換に家出なんて信じられないよ。なんか事件に巻き込まれたんじゃ……」

「まあとりあえず明日の朝ごはんとお弁当をどうするかだよね」

「うーん、それはお金渡しとくからなんとかして。朝ごはんはとりあえずコンビニでパンかなんか買ってくるから」


「わかったあ」

「俺は給食あるから昼ごはんはいらないよ」

「うん。しっかし、夕飯を毎日外食ってわけにもいかないしそもそもそんなに早く帰ってこれないんだよな……。今日は仕方なかったけど。とりあえず、明日有給取ったからお父さんは警察に行ってくる。なにか手がかりがあれば良いけど。お母さんは親戚付き合いも友達もほとんどいなかったからなぁ」


「ねぇ、お母さんいないと困るよねぇ? 」

「困る」

「どうしたもんかなぁ。とりあえず今日は風呂入って寝るぞ。お父さんはちょっと残りの仕事やるからお前たちは早く寝るんだぞ」

「はあい」

「あっ、俺宿題やらなきゃ」


 そのあとわたしたちはお風呂を沸かすボタンがわからなくて右往左往した。だっていつもお風呂は母が沸かしてたし、掃除もしてたのだ。


 その日、いつまでたっても母は帰って来なかった。


 母が失踪してからわたしたちは色んなことを分担した。それまでわたしも弟も洗濯や風呂掃除や食器洗い、掃除機かけなどやったことがなかった。いつも母が完璧にこなしていたのでやる余地すらなかった。冷凍食品やインスタントなんてうちでは一度も出てきたことがなかった。わたしは友人宅で食べたカップラーメンがあまりに画期的で美味しくてびっくりしたことがある。手作りのおやつ、栄養価の高い副菜、見た目も綺麗なお弁当。頼んだわけではない。でも、わたしはずっと母に甘えて母を犠牲にして生きてきたのかもしれない。


 洗剤の量を間違え、ティッシュを入れたままガビガビにしてもう一度洗濯した。タッパーのぬめりがなかなか取れずシンクがびちょびちょになった。お風呂の排水溝掃除はみんなやりたくなくてジャンケンで決めた。カーテンや電気の傘を洗うということすら知らなかった。私たちは母がきちんとしていたから今まで快適な生活を送れていたのだ。


 父は悪い人ではないと思う。ちゃんと働いていて、酒も煙草もギャンブルもやらない。趣味もレコード収集くらいでわたしから見ると毒にも薬にもならない人だった。母にもわたしにも弟にも怒鳴ったり暴力を振るうこともなく、結婚記念日には大きな赤い薔薇の花束を母に毎年送っていた。父と母はどこからどう見たってなんの問題もない夫婦だった。でも、良く考えると母には趣味があっただろうか? 完璧に整理整頓された家の中で母が何を好きだったのかわたしにはわからなかった。母はいつでも同じように美しく微笑んでいた。世間のイメージする優しい母親像が母だった。わたしは母の愚痴やため息を一度も聞いたことがなかった。思い出してみれば叱られたこともなかった。母は、わたしのことをどう思っていたんだろう?


 翌日、父は母の写真や手帳などを持って警察へ行き、行方不明者届を出した。母の手帳にはわたしの学校行事予定と弟の部活の予定が書かれていた。直近に母自身の予定はひとつも書かれていなかった。

 

 それからのわたしは鍵を持ち歩くようになった。弟はしばらく部活を休むことになった。これに関して弟はひどく不満なようで父に対して何度か突っかかっていた。どうやら保護者がいないと出来ないことが結構あるらしい。でも、父は仕事があるからそれに対応出来ないと言っていた。わたしが代わりに出ようか? と聞くと未成年では駄目とのことだった。弟はサッカーが好きだから可哀想だなと思った。部活がなくても河原とかでこっそり練習をしているようだった。公園じゃサッカーボールを蹴っちゃいけないんだよと弟は不満顔でこぼしていた。


 今日も母は帰って来なかった。


 失踪した時、母は財布と携帯だけ持って出て行った。着の身着のままというやつだ。だから母の服や靴やアクセサリーはいなくなった日と同じようにひっそりと母の部屋にあったし、細い銀色の腕時計の針はいつの間にか止まっていた。


 いつしか母がいないことが日常になった。弟も父も母の話をしなくなった。わたしも弟も料理を作れるようになったし洗濯だって出来るようになった。日用品の買い出しはわたしの担当になった。父はのめり込むように仕事をしていて、朝6時には家を出てしまうし帰宅も23時近くて弟とは殆ど顔を合わせていなかった。最近は何となくわかっていた。母はきっともうこの家に戻らないだろう。


 それから半年が過ぎても母は帰って来なかった。わたしはうっすら埃の被った母の部屋の荷物を整理することにした。化粧品、洋服、アクセサリー、家計簿。それらは確かに母のものなのにどこかぼやけた印象だった。どの品物も高級ではないけど安価でもないものばかりで母はわざとそういうものを選んでいたように思えた。家計簿には糊でレシートが貼られ、その横に硬筆のお手本みたいな綺麗な字で科目が書かれていた。睦美むつみお小遣い、敏春ユニフォーム代、さとる眼鏡修理、睦美皮膚科、敏春歯医者とやはり母以外のことばかりだった。


 家計簿をペラペラと捲っていくと最後のページに薄いピンク色の封筒が挟まっていた。これはもしかして母からのメッセージかもしれないと思ってドキドキしながら開けるとそこには一枚の写真が入っていた。去年の春に写真館で撮った家族写真で、母以外の3人の顔が油性マジックで真っ黒に塗りつぶされていた。思わず声が出てその拍子に写真を落としてしまった。拾い上げて裏を見ると《終わり》と書かれていた。母の気持ちが少しだけわかったような全くわからないようなそんな感じだったけれどこれを他の2人が見たら多分傷つくのでこっそりと処分しようと思った。母は何を思ってここにこんなものを入れたんだろう。もっと早く気付けたら母はいなくならなかったんだろうかとちょっとだけ考えてしまった。考えたって悩んだってもう無駄なのに。


 母は今日も帰って来なかった。


 母は今日も帰って来なかった。


 母は今日も帰って来なかった。


 母はもう、帰って来なかった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ