296話 神杯
幼女が雄叫びと共に振り上げた槍からは膨大な奔流となって、白き粒子が隕石へと向かっていった。
その純白の光は留まることを知らずに、あっという間に広がっていき辺りを覆った。巨大な絶望を纏う隕石も、地上にて激闘を繰り広げる人々も魔王たちも。
もちろん、アイのそばにいたトートも。
世界は熱を感じさせぬ優しき白き光に支配されて、全てが光の中に消えていくのであった。
トートは目が潰れるかと思うほどの光の前に目を瞑り身を守るために魔導書を抱えて蹲っていた。だが、あれだけ騒がしかった戦いの音が消えて、痛いほどの静寂が辺りを包み込んでいることに気づき、そっと立ち上がる。
「なんだ、これは?」
トートの目に入る光景は霧の世界。白き光が世界を照らす中で、少し先も見えぬ霧が周辺を覆っていた。
キョロキョロと様子を窺うが、なにも耳には入ってこず、生命の反応も感じられない。
仕方なく、雲のようにふわふわとする感触の地面を恐る恐る踏みしめて歩き出す。
「隕石はどうなった? 戦いの結果は? 我はどこにいるのだ?」
隕石が墜ちてくるギリギリにテレポートにて逃げるつもりであったが、その前に使徒が何かをしたのを覚えている。一面を満たす光の奔流に蹲りやり過ごそうとしたことも。
だが、この場所は何なのだろう? 隕石が墜ちれば世界は崩壊しているはず。ここは崩壊した世界なのだろうか?
わからない。理解できない。想定外のことが起きたのだ。ヨロヨロと魔導書を抱えながらトートはどこへ向かうともわからずに闇雲に歩き始めた。
既に魔力は空となっており、身体は崩壊寸前で、信仰心が自分に流れてくることもない。ボロボロであり、今なら人間たちでも倒せるだろうと苦々しい表情になる。
「お〜い〜。誰かいないか〜?」
だがそれ以上に不安があった。霧の中で一寸先も見えず、一人で歩いていることに。
酷く不安を覚えて、誰かいないかと声を張り上げる。その声音は霧に吸収されて、シンと静寂のみが残る。
フラフラと崩れていく身体を動かして、幽鬼のように再びトートは歩み始めた。
どれぐらいの間歩いたのだろうか。既に時間の感覚はなく、どれぐらいの距離を歩いたのかもわからないまま、霧の中を歩き続けていたトートは霧の中に、強い光を見つけた。
光に誘われる蛾のように、トートはその光へと向かい始める。
フラフラとフラフラと歩き続けて、光の下へと辿り着き、その目を見開いた。
「おぉ! これは杯か? これこそが我の求めていた物なのか?」
そこには手のひらサイズの光り輝く杯がちょこんと置いてあった。まさしくこれこそが我の求めていた主神に位階を上げる杯なのだと確信してその手に持つ。
「なんと美しい……」
不思議なそして神々しさを感じる杯であった。反対側まで透けている透明なクリスタルでできていると思いきや、手に持ち眺めると白金となっていた。磨かれた鏡面のような杯を見る角度を変えると銀に、金に、ルビーのような紅い色に、サファイアのような青色に変わっていく。
虹などよりも美しい芸術品だと、その鏡面のような杯に手をつける。すべすべとしており、自分の全身姿が映っていた。
いつの間にか杯は手の中になく、地に置いてあった。手のひらサイズの杯であったのに、見上げるほどの大きさへと変わってもいた。
透き通るような透明な杯の中にはキラキラと宝石のように輝く純白の粒子がなみなみと入っているのが見える。
「素晴らしい! これこそが我の求めていた力! 感じる、感じるぞ! これぞ世界を変え、神の位階を上げる力だと」
あの力を飲み干せば自分は主神に到れるだろうと、手を伸ばすが巨大な杯は天をも貫く柱のように巨大化しており、届くことはない。
「どうなっているのだ? どうやってこの杯の力を手に入れることができる?」
苦々しく顔を歪めて杯を睨む。巨大すぎる杯の前に地団駄を踏むが、杯に映る姿が自分でないことに気づいた。
それは若い男が妻らしき者と語っている幸せそうな姿であった。なんだこれはと、目を凝らすと、どこかの酒場で楽しそうに友人と飲んでいる違う男の光景へと変わる。
瞬きをするごとに、その光景は移り変わる。様々な光景がそこにはあった。魔物と力を合わせて戦う者たち。店で元気に売り子をする女性、どこかの執務室で書類を片付けている男性。
一度たりとも同じ光景はなく、されど映る人々は生き生きとしているのが特徴的であった。
「これは……これはなんだ?」
その光景に、なぜかトートは怯みながら後ろに下がる。
「これは人々の記憶だ。お前が見ているのは堕ちたる弱きものたちがやり直している光景だ」
頭上から小鳥のように愛らしさを感じる幼気な声が聞こえてきて、慌ててトートは声の持ち主を見ようと仰ぎ見る。
杯はいつの間にか5メートル程の大きさへと変わっており、その縁にちょこんと幼女が穏やかな表情を浮かべて足をぷらぷらと揺らしながら座っていた。
「アイか! この杯はなんなのだ? 弱きものとはいったい?」
僅かに残る魔力を手へと集中させながら問う。トートの問いかけに、アイは僅かに肩を竦める。
「俺の世界は悪意を持つ人間たちが化け物になって崩壊してな、そんな世界を生きてきたんだ。……歳だった俺はある時考えちまったんだ。悪意を持つ人間たちってのは、悪人じゃない奴もたくさんいた。学校で苛められていた奴、ブラック企業に努めていた派遣社員、悪意のあるクレームに頭を悩ませる教師。そんな奴らは死後どうなるんだってな」
「……なんともならん。堕ちたる魂は瘴気へと変わり、浄化されるまで漂うだけだ。意思など無くなるし、死後に意味はないっ」
世界の理。神にとっては常識の理だと、トートは言う。
「そうなんだよな。そんな奴らが魂を持たず瘴気へと変わるなんて悲しいと思わねぇか? 浄化されてもその魂は戻らないなんてよ」
目を細めて悲しげに言うアイへと、トートは鼻で笑い返す。
「くだらんな、心が弱いものがいけないのだ。同じ境遇でも優しさを忘れずに堕ちない魂などいくらでもいる!」
神として様々な人生を見てきた。人間の善悪など知ったことでないが、それでも感心するほど強い精神の持ち主は過去にいたのだ。
「そりゃ、強い奴の論理なのさ。そんな奴らを……まぁ、正直に言うと俺の親父、堕ちたる化け物となった親父を救いたくてな。こ〜んなことをしたのさ」
短い手をバンザーイとあげる幼女の言葉に顔を顰めるが、その意味することに気づく。信じられないことであるが。まさかとは思いつつ。
「自らの魂を核にして、堕ちたる魂を浄化をするために、この杯に集めたのか? そんなことが可能なのか? そのようなことをすれば意識は融合でめちゃくちゃになる。混沌とした意思なき化け物になるはずだっ」
「あ〜、それが難点だったんだ。だが、それを解決する方法はあった。それがこの姿なのさ」
平坦なる胸に紅葉のようなおててをつけて、トートへと告げる幼女。その言葉にハッと驚きの顔にトートは変える。なにをしたのか理解したのだ。この幼女がなにであるかも。
「そうか……貴様のその姿は本当の姿ではない。寄り集まった魂の杯を制御するための装置にすぎん。汝は既に杯の中に、寄り集まった魂の中に融合して消えており、その記憶はたんなる制御するためのコピー。残滓にすぎないのだ!」
「お〜、さすがは魔術の神。ほとんど正しい推測だ。拍手で返してやるよ」
ぱちぱちとちっこいおててで拍手する幼女を信じられないとまじまじと見る。記憶のコピーと言われて、杯を制御する装置だと言われても、動揺もせずに平然とした顔でこちらを褒めるように拍手をする幼女が信じられない。自分が自分ではないと気づいて、なぜ平気なのだろうか?
「まぁ、ぶっちゃけ自己犠牲精神からだけじゃねえ。俺はこの世界の神に召喚される際に死んじまったんだ。なにせ魂だけを抜き出そうとしてきたからな。で、ある男に頼んだんだ。天文学的な数値で当たったぞと」
ふふっと悪戯そうにアイは微笑む。
「……その身は杯となっている。永遠を杯となって過ごすのだ。馬鹿なことだ。愚かなことだ」
「俺も愚かなことだと思うぜ。自己満足精神なおめでたいやつだと思われるだろうなぁ。だが、少しだけ親孝行をしたかったのさ。こんな愚かなことをする奴も……。たまにはいても良いだろう?」
後悔はない。それにトートが間違っていることもある。
「俺はコピーではないんだぜ。この魂は杯に混ざったが、少しだけ無事な部分があったのさ。それを創った新たなる魂で補完して生きている。幼女の姿には抗議したいけどな」
それでも新たに創られたとも言えるアイは不安定であった。ほとんど記憶はなく、精神は虚ろであり、狂ってしまってもおかしくない。そのために考えたこと。即ち誰も知り合いのいない、ちょうど手に入れた異世界にアイを放り込むことに女神はしたのだ。
女神と共謀して、嘘をついた。死ぬ寸前で助かったと。異世界に転移しないかと、話を持っていったのだ。演技をしていた。おっさんがぎりぎり助かったと幻を見せた。幼女の姿におっさんの幻を映して。女神と俺と、この馬鹿な頼みを聞いてくれた男だけの秘密だ。
僅かに残る記憶から、段々と知識を補完していき、親友であった死んだ者たちを使い情緒を安定させて、一人の人間として復活させた。
欠片となった記憶から世界支配を始めようと目的を持ったのは想定外であったが。
「即ち、今は神杯を持つ完成体、それがあたち、アイ・月読なんでつよ!」
えっへんと幼さを見せて胸を張るアイ。誰でもない、アイ・月読がここにはいるのだ。中におっさんが混じっているのがマイナスポイント? アクセントでつよ、アクセント。
「ならば神杯よっ! 我の物となれ! 道具は使われてこそ道具なのだっ」
神杯の力があれば主神になれると、必死の形相でトートは叫んでくるが、その叫びにアイは首を横にふるふると振る。
「あたちの役目は堕ちたる魂の浄化。闇に1滴の光を差し込ませて照らす役割。普通なら闇が侵食するパターンだから反対でつね」
だいたいの小説だと光は闇に侵食されるけど、違うのだ。闇は簡単に光に上書きされるのだ。例えていえば、真っ暗な部屋も蛍光灯を点ければあっさりと明るくなるみたいに。例えが簡単すぎるかもしれない。
むふふと微笑みながら、トートを指差して教えてあげる。
「それに道具は使われる物と言いまつが、トートは人を使ってまちたよね」
「なに? 我のどこが……」
アイの言葉に不思議そうに戸惑うが、トートは神杯に映った自分の姿を見て言葉を失う。
杯に映るのは、ちっぽけなメモ帳であった。もはや朽ちかけており、風が吹いたらバラバラに吹き散るだろう古いメモ帳だ。先程まであると思っていた肉体はどこにもなかった。歩き続けていたのは錯覚であった。最初から杯の前にいたのだ。
「そうか……そういえばそうだったな……思い出した……我は神ではなかった……」
たんなる主神が戯れに使っていたメモ帳。主神に長いこと使われていたことにより意識を持ったたんなる紙切れであったとトートは思い出した。
だからこそ、異界の神はトートを殺しに来なかったのだ。全ての神が滅ぼされて見逃された理由は簡単であった。
「神ならぬ紙であったか……ふははは……笑えぬな……」
メモ帳から乾いた笑いの念話が聞こえてくる。段々とその笑いは途切れていき、風化するように崩れていく。
「忠告しよう。貴様の暖かな光は必ずや悪意ある者たちも引き寄せてその力を狙ってくるだろう。気をつけて生きるのだな、アイよ……」
最後の言葉を残し、メモ帳は灰となって消えていく。その様子を見ながら、アイはくすりと笑った。
「大丈夫でつよ。なにしろあたちは世界を裏から支配する、頂点の存在。黒幕幼女なのでつから」
手足を伸ばして、ビシリとポーズをして
コロリンと神杯に落ちちゃう黒幕幼女であった。