277話 夢
「悪人を救いたい?」
その男は鳩が豆鉄砲を受けたような顔をした。この男がそんな表情をするのは珍しい。いつもはつまらなそうな表情で、酷薄な笑みを口元に浮かべて、何を考えているのかわからないのが普通だからだ。
赤提灯が外に掲げられて、ガタガタとガラス窓が揺れ、わざと古めかしい豆電球が天井から店の中を照らしている。ガタつくような一見オンボロのテーブルと椅子、そして赤ら顔をして酒を飲む客たちの騒がしい中で、おでんが盛られている皿を見ながら、男は首を傾げてきた。
「意味がわからないな。刑務所なら建てられたはずだが? 刑を償えば真人間になる……という法律上の問題ではなく、心の問題か? まさか心を救ったことにより、悪人は救われるなんて青臭いことを言う歳でもあるまい?」
「まぁ、俺ももう歳だからな。そんなことは言わねえよ。そうじゃなくて……最近は歳のせいもあるのか、妙に変なことが気になるんだ」
かぶりを振って苦笑いをする。心を救うのは若い奴らに任せれば良い。俺の言うことはそうじゃない。
「なぁ……世界が崩壊してから、ずっと考えていたことがあるんだ。正しく言うと、天使教の説教なんだが……。最初に化け物になった奴らは悪人で、地獄で苦しんでいるのは本当なのかってな」
天使教。地球は吹き荒れたダークマテリアルとやらで崩壊した。世界はゾンビが闊歩して、化け物たちが大手をふることになっちまった。その際に救世主と呼ばれる嬢ちゃんに救われた者たちが作った宗教団体だ。今や、ほとんどの者が入会している。
その天使教の説教をたまたま聴いたときに思っていたことがあるのだ。
「くだらんな。私は神を敬わない。特にあんなお祭り教団などはな」
鼻で笑って、ガラスコップに入っている焼酎をグイッと男は呷る。たしかに男にとってはそうなんだろうな。
「まぁ、実の娘が女神として敬われているんだからな。その気持ちはわかるぜ」
からかうように言うと、男は表情をつまらなそうなままに、肩をすくめてくるだけだった。相変わらず表情を出さない男だ。ひょんなことから、たまに飲むことになったが、この男の考えはよくわからない。
「君の言うとおり、ちょっと強い少女を女神扱いしている適当な宗教だ。そんな宗教の何に君は感銘を受けたのか教えて欲しいね」
「まぁ、聞いてくれ。悪人と言ってもだ。犯罪を犯した者たちじゃない。心を腐らされた者たちが悪人扱いされているってことだ」
「化け物に変質した者たちは残念ながら救うことはできない。救うための研究はしていないしな。なんだ、変質した奴らを元に戻したいのか?」
それならばわかるが、無駄なことだと俺は知っているので、冷たい声音で言う男の言葉に首を横に振り否定する。たしかに化け物に変質した奴らを人間に戻せれば最高だが、完全に変質した奴らは毛虫と蛾のように、完全に変態しており元に戻すことはできない。そして戻すための研究もされていない。
なにしろ、家族を殺され友人たちを皆は喪っている。今までの生活は失われて、泥水を啜りながら生きてきた者たちだ。化け物たちを救おうと考える余裕もない。そんな余裕があるのならば、まだ各地に生き残っている者たちを救う方が先決なのだから。
「俺の言いたいのは、犯罪も犯していない奴らだ。誰しも心に深い闇を……こっ恥ずかしい言い方だが持っている。言わなくてもわかるだろう? 表向きは普通に振る舞っていて、心の奥にドロドロとした鬱屈したものを持つなんて、普通じゃないか? 化け物になった奴らは普通のラインを超えちまっただけだろ?」
「……で? 話は簡潔にしろ。なにが言いたいんだ?」
「だからよぉ。あ〜、魂ってどうなんだって話さ。死んだ奴らはどうなっているんだ?」
頬をかきながら話すが、内容的に言いづらいので、口籠ってしまう。こんな話を他人から聞かされたら、どう思われるか理解している。
「……少し休暇をとったほうが良いぞ? ウォーカーを続けるには厳しい歳になったんだな」
予想通り、相手は憐れむような表情で忠告をしてきた。そう言われると思っていた。俺だって、他の友人にはこんなことは言わない。この男だから尋ねることにしたのだ。もしかしたら知っているのかもと。
そんな俺の葛藤に目敏く気づいたのだろう。男は目を細めると顎を擦る。
「要は君の死んだ家族の中に最初に変質した者がいたんだな? そして、老い先短い歳になってから、その者たちがどうなったのか気になっていると」
「そこまで老いてはいねえよ。だがそのとおりなんだ。俺の親父は教師だったんだ。たぶん普通の教師だった。ちょっと酒好きで、家庭内ではいつも疲れたような表情をしていた。教師なんざ、ストレスを溜める職なんだろうな。心に何か鬱屈したものを持っていたんだろうぜ。最初にゾンビになったんだ」
家で母親の悲鳴に気づき見にいったら、ゾンビとなった親父がいた……。その場は逃げたが……後で半身が蜘蛛となった化け物になった親父に再会したのだ。
「親父はオスクネーと言われる化け物になっていた。顔は変わっていなかったからな……わかったんだ」
オスクネーと呼ばれるアラクネのような化け物。だいたい心身を病むような悲惨な状況であったサラリーマンなどがなる化け物だ。
「よくある話だ。表に出て不幸話として語れば同じ境遇の奴らが見つかるぞ?」
ガラスコップを揺らしながらバッサリと切ってきて同情をしてこない男だが、そう言われたほうが気が楽になる。こいつはいつもこんな感じだ。冷たく合理性の塊だが、だからこそこんな落ち込むような話もできる。空気がまったく変わらないからな。
「後で知り合いから聞いたんだが、いわゆる学級崩壊とかいう状況だったらしい。どこかの政治家の息子がいたらしくてな。好き勝手していたんだと。親父はだいぶ苦労していたらしい。権力の振るい方を間違ってやがる相手だったんだ」
俺も焼酎を呷り、コップをテーブルに強めの力で置く。ダンという音が響き、隣の客がちらりと見てくるが、すぐに興味をなくしたのだろう。他の飲み客と話し始めた。
「そんな親父が化け物になっちまった。……なっちまったんだ。で、軍に倒されたんだが……。その魂はどうなったんだ? と思ってな。地獄で苦しむってのはあんまりじゃないか……とな。くだらないことかもしれないが、あんたなら知っているかもと思っちまったんだ」
魂の在り方かよと、俺の話が聞こえただろう隣の客が小馬鹿にしたようにフンと嘲笑う。たしかに怪しすぎる話だ。普通の人間なら鼻で嘲笑う、俺の精神を心配して病院を勧めるかするだろう。
だが、この男は別だ。超科学を持つ国のトップ。いつまでも歳をとらない男だからだ。もしかして魂の在り方も知っているのではなかろうかと、一縷の望みを持っちまった。たんに俺が酒の飲み過ぎなのかもしれないが。
「……ふむ……。同情はするが諦めろ。オリジナルを救う方法は無い。魂を救う方法はあるが……。誰もやりたがらないだろう」
その言葉にギクリと身体を強張らせる。まさか冗談かと思ったが、目の前の男はつまらなそうな表情のままで冗談は言っていないように思える。
「その方法は正常なる魂を核に、オリジナルたちの堕ちた魂を掛け合わせる。そうしてひたすら浄化を続けていけば、正常なる魂を核に一縷の光は全体に広がり、救うことができるだろう。器となる、ということだな。ふ、概念的な馬鹿げた話だ」
「そ、それは簡単にできるのか? 俺とかでも?」
思いもよらなかった返答に、身を乗り出すが、こちらの熱気を消すような冷ややかな視線で返されちまった。
「冗談だ。魂などと形の無いものを見ることができるわけはないだろう?」
「なんだ、からかうなよ」
椅子に座り直して文句を言うと、男は肩をすくめて口元を歪める。
「そんなことをしたら、意識がごっちゃになって気が狂うだろうよ。もしも、意識が融合しないように、別の精神体を作り隔離できるとしたら……。それでもきっと記憶に混濁が起きるだろう。己の名前も、友人の名前もほとんど忘れて、なぜ自分がそのようなことをしたのかも忘れるはず。きっと別の目的に歪んで変わるだろう」
「忘れちまうねぇ……。俺の親父はそれでも救われるんだろう?」
自分がなぜそんなことをしたのか忘れる……悲しい話だ。目的が歪んでしまった者はいったいどうなってしまうんだろうか?
「自己犠牲精神を見せてくれてありがとう。ここは笑ってやれば良いのか? 悪いが私は自己犠牲が大嫌いでな、もしも……もしも……天文学的確率で、そうなる未来があったとしたら、検討してやるさ」
ニヤリと悪どそうな笑みを男はしてくるので、今度はからかわれたことに気づく。結局無理ということだろう。当たり前か。
「なんだよ、そこまでいって、検討かよ。ケチくせえ」
「ケチ臭くないと、国のトップはやっていけないのだよ。知らなかったか?」
わざとらしくかぶりを振って苦労人のような態度をするが、この男は仕事が趣味のような男だと知っているのでは苦笑しちまう。
「ここの勘定をお前持ちにして、気前の良いところを見せてくれ、国のトップさんよ」
俺もニヤリと笑って、どちらが勘定を持つのか話し合い………。
パカリとアイは目を醒ました。ベッドからうにゃうにゃと小柄な幼女は抜け出す。
周りを見渡すと天空要塞クリームパンケーキの寝室だと思い出す。疲れたので、すぐにベッドに入って就寝したのだ。
「ふわぁ……なにか、夢を見ていた感じがしまつ」
ちっちゃいお口をめいいっぱい開けて、欠伸をしちゃう。なんとなくおててをグーパーするが、いつもどおり、紅葉のようにちっこくて可愛らしいぷにぷにおててだ。
さっき見た夢は何だったのだろうか? なんとなく覚えている……。
「おでん、美味しかったでつ。あ〜、今日はおでんの日にしましょー。ハンペンと魚河岸をたくさん入れて作りまつ」
おでんが美味しかったことだけ覚えている幼女だった。おでんサイコー。
フンスと鼻息荒く、夕食はおでんだよと張り切っちゃう。ハンペンも魚河岸も作るのが大変だから、準備しなきゃ。スーパーで売っていて簡単に買える訳ではないのだから。
「お魚釣りからでつね。ララやポーラたちを誘って海釣りに行くとしましょー。急がなきゃでつ」
お着替えをして、歯を磨いてと、とやることを指折り数えてぽてぽてと歩き出す。幼女は朝起きたら自分のことがちゃんとできる良い子なのだ。
今日も1日楽しい日になるだろうと、ムフフと笑って黒幕幼女は寝室から出て行くのであった。