156話 自身の立場に思い悩む男爵
馬車の揺れが止まり、御者が窓を開けて、到着しましたと声をかけてくる。
馬車を降り立つと、夕闇が迫る中で、自分の屋敷が目に入る。壁にヒビが入り、窓はほとんど板で塞ぎボロボロだった屋敷は、ヒビは修繕されて、木窓は新しいのに変えられて、貴族の屋敷として恥ずかしくない程度にはなっている。余裕ができた証拠に、小さいながらも庭があるのだが、ぼうぼうと繁茂していた雑草は刈り取られて、花が植えてあった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
新たに雇った中年の人の良さそうな召使いが頭を下げて出迎えてくれるので、貴族らしく鷹揚に頷くと、妻が召使いの後ろから笑みを浮かべて来てくれた。
「お帰りなさい、貴方。ニュクスも帰ってきているわよ」
温かい出迎えの言葉にホッと安心して、娘のニュクスが帰宅していたことに多少驚く。
「そうか。今どこにいるんだ?」
「食堂で貴方を待っています。待ち侘びていますわ」
「そうか。すぐに会おう。久しぶりの親子の団欒だからな」
食堂へと足早に向かうと、ニュクスはのんびりとコーヒーを飲んでおり、寛いでいた。どうやら元気らしい。久しぶりの帰郷なのだから、出迎えに来てくれても、父親としては問題ないのだか……。
「ただいま。ニュクス、元気そうでなによりだ」
「あ、お父様! お戻りになったのですね。全然気づきませんでした。扉の蝶番がギィギィと錆びた音をたてていませんでしたので」
あぁ、そういえばそうだったなと苦笑いを浮かべる。我が家は由緒正しきボロ屋なので、常に扉が錆びついた音をたてていたのだ。それだけならまだしも、建付けが悪く傾いて外れかけていた物もあった……。
「ニュクスがいない間に修繕したのだよ。そこはかとなく趣のある屋敷に見えるだろう?」
「ふふっ。そうですね。でも……よくお金が足りましたね?」
首を傾げて不思議がるニュクス。たしかに給料はかなり上がってはいるが、それでも屋敷全体となると、かなりの費用が必要なので不思議に思うのも無理はない。維持費だけでも、結構な金額が消えていくのが、貴族の屋敷なのである。多少金回りが良くなっても、修繕は無理だ。
一般的な方法では……。
「見習い大工の修繕の練習として、割り引いて貰ったんだよ。なので、壁の塗りにムラがあったり、扉が少しだけ歪んでいたりする。が、それでもボロ屋敷よりはマシだろう?」
安かったし。安いというのは貧乏貴族にとっては福音なのだからして。
そうだったのですねと、コーヒーをニュクスは指差してくる。その所作の問いかける意味は理解できる。
「セール品だ。あまり良いコーヒー豆ではないらしい」
真面目な表情で答える私に、娘はクスクスと口元に手をあてて笑う。
「昔通りの変わらないお父様で安心しました。月光の贅沢品を扱う地位にいるので、人が変わっていたらどうしようかと思いましたわ」
「この人は意外と図太いから。貴女と同じでね」
妻がトレイに夕飯を乗せてやってくる。メイドが後ろに続き、ワゴンを押してきていた。
テーブルに食事を置いていき、娘もその手伝いをする。野菜たっぷりのスープに、ふかふかの柔らかいパン、そして焼いた肉だ。兎肉だろう、塩がきいていて旨そうだ。
「肉が夕食に出るようになるとは、我が家も裕福になったもんだ」
肉だ、肉だと思わず顔を綻ばせてしまう。
「図太い……お父様が本当に図太いか不安になります……」
そんな私を見て苦笑を隠さない娘は、疑惑の表情を浮かべるが、ほっといて欲しい。
「図太い神経をしていなかったら、貴女をダツ家のケンイチ様に嫁入りさせようと、押しかけ女房のような事をさせていないわよ」
食事を並び終わり、席につく妻がのんびりとした口調で言う。ニュクスの将来を考えての行動だぞ。失礼な。ちゃんとギュンター卿にも許可は貰っている。
ただ予想と違ってきている。当時はダツ家のケンイチ殿を一介の騎士だと思っていた。
だからこそ、小さいながらも家を持ち、きちんとした幸せな家庭が持てればと、結婚はともかくとして、ニュクスの良いところを見てくださいと、かなり強引ではあったが、ダツ家のケンイチ殿のお手伝いに通いで行かせたのだが……。
予想に反しケンイチ殿は大出世をして、私の方も以前のように、貧乏貴族として、誰からも見向きもされなかった立場ではなくなっていた、
「話題に上ったから、ちょうど良い。ニュクス、ケンイチ殿との関係は良好かね?」
私はケンイチ殿が領主になったとは知らなかった。しかし、ニュクスは気づいており、慣れぬ仕事に精を出していた私が知らない間に、ケンイチ殿について、領地へと行ってしまったのだ。
いなくなって暫くしてから、娘を最近見ないなと妻に尋ねたら、ケンイチ殿についていきましたと言われて、あんぐりと驚きで口を開けてしまった。
「はい。久しぶりの帰郷でしょうと、たくさんお土産を頂きました。優しい方ですよ。婚約はまだですが」
頬を赤らめて、娘は嬉しそうに話すので、関係は良好らしい。そうか、良好なのか……。
困り顔となった私の表情に気づき、娘は訝しげに首を傾げて、なにかあったのかと、問いかけるような視線を向けてくる。
うむ、なにかあったのだ。問題が発生している。
「旦那様は月光商会の中でも、かなり重要な地位についていると、市井で囁かれ始めてるのよ」
妻が口を挟み、フォローをしてくれるが、娘はその言葉にさらに混乱したように返答をしてきた。
「それは……おめでとうございます? で、よろしいのでしょうか?」
「あ〜……。あまりめでたくはないな。実際のところ、私は王都にくる荷物を管理している倉庫番のようなものだ。以前と仕事的にはあまり違いがない。だのに、私が一手に月光の商品を取り扱っていると勘違いされて、迷惑しているんだ」
ため息をつきながら、肉にフォークをブスリと刺して苛立たしく口に入れる。む、なかなか美味い。隠し味に醤油を垂らしているな。醤油をあまり使わなく、それでいて料理の味が美味くなるように、最近では隠し味といった使い方が平民には流行しているのだ。
供給量はあまり変わらないのに、需要は高まっているから、醤油の値段が少しずつ値上がりしているのが影響してしまっていた。
「供給量をあげて欲しいと、アイ様にこっそりとお願いする程度の権力しか私はないよ。それなのに……貴族の世界ではそう見られないらしい」
はぁ、とため息をついて愚痴ってしまう。なぜに私が巨万の富を手中に収めているのだろうか。実際は夕食に肉がある程度で喜ぶ程度の金しか持っていないというのに。
横領などもできはしないし、する気もない。そもそもチェックがかなり厳しいのだ。ギュンター卿から、稀に細かい内容を聞かれるときもあるが、かなり実際の流通量を把握していた。
恩を仇で返すわけにもいかないしな。しかし、最近は私と接点を持とうとする輩が多い。なにを勘違いしているのやら……。
「王都の商会が旦那様に贈り物をしてくるのよ。まぁ、理由はわかりやすいほどに、わかりやすいわよね〜」
「商会なら特に気にしなくとも良い。問題は貴族だ。同格ならまだしも上の貴族となると、贈り物を断るわけにもいかぬ。それにニュクスに縁談の話も大量に舞い込んでおる」
というか、子爵以上は全て上の方である。その子爵以上から縁談や夜会の誘いがきているのだ。
どうすれば良いのだと、フォークを置いて頭を抱えてしまう。最近、周りが煩くて敵わない。夜会の招待状も沢山来ている。多忙のためと断るのも、そろそろ限界だ……。後ろ盾のない下級貧乏法衣貴族には厳しい状況である。
「ようはそれらを解決できれば良いと言うことでしょうか? それならば、アイ様にお願いしてみれば?」
「……! それだ! 月光屋敷に戻るぞ! ニュクスお前もついてきなさい」
娘の何気ない一言であったが、たしかにそのとおりだ。いまさら頼らないという道はない。なにしろ月光商会にどっぷりと私は浸かっているのだから。
夕食はとっておいてくれと、妻に頼みながらハウゼンは足早にニュクスを連れて月光屋敷へと戻るのであった。
私の兎肉が食べられませんようにと、セコいことを考えながら。
「なるほど、話はわかりまちた。ケンイチ、ニュクスしゃんを気に入ってまつ? 婚約しても良いでつか?」
月光屋敷に急ぎ戻り、アイ様へとお会いしたら、偶然にもギュンター卿や、ケンイチ殿が一緒にいた。最近の出来事を伝えると、あっさりとアイ様は婚約話を持ち出すが……。
「あ、はい。問題ないかと。私もニュクス嬢には好意を持っていますので。コホン、ニュクス嬢、婚約をしていただけますか?」
「はい! 喜んで、お受けします!」
随分と身なりが良くなって、貴族らしく見えるケンイチ殿がついてきたニュクスの前へと跪く。ニュクスは満面の笑みで、ケンイチ殿の求婚を受け入れて、あっさりと婚約話は解決してしまった。
「赤ん坊にはスキルは継承されないからな。努力あるのみなんだぜ」
「おめでとうでつ! ケンイチは努力の人なので、子供も努力が必要となるでしょーが、まぁ、大丈夫でしょ。大丈夫だよね?」
「その問題は過去に解決済みなんだぜ。身体能力も母親似になるから、特に問題はない」
マコト様がよくわからないことを言うが、アイ様は納得するように頷いていた。下級騎士の能力しかないケンイチ殿は、努力で成り上がったから、その血を受け継ぐ子供は強くはないと気にしているようだ。
私としては問題ない。ニュクスが幸せであれば良いし、身体能力はニュクスの血が入れば上がるだろう。
「ケンイチは今回の戦いの報奨として、国替えされて人口5万人のバルカス都市の領主となり、周辺5都市の代官を束ねることになりました。出世して婚約者も決まるとはおめでたいでつ。爵位は伯爵に昇爵しまちたよ」
わ〜、ぱちぱちとアイ様は拍手をして頂けるが、私は口元が引きつってしまう。となると、ケンイチ殿が伯爵に……! ニュクスよ、頑張るのだぞ……。
男爵の娘が伯爵の妻になると、大変苦労するのは間違いない。が、なんとなくアイ様の下なら大丈夫だという感じもする。表向きは陽光帝国のスノー皇帝陛下が権力を握っているそうだが、どこまでアイ様は介入できるのか……。知らないほうが良いこともあるな、うん。
「これでニュクスしゃんに手を出す相手は陽光帝国を敵にすることとなりまつ。まぁ、結婚式は南部が落ち着いてからになるでしょ〜」
「ケンイチよ。六都市の中心となるのだ。くれぐれも領地を奪われないように気をつけるように。関羽とはならないようにな」
結婚式は南部が落ち着いてからとなると、暫く期間は空きそうだ。南部が落ち着くとは、統一するまでのことを言うのだろうか……ギュンター卿が真剣な眼差しでケンイチ殿へと忠告するが、関羽とは誰のことだろう。どうやら故事のようなので、後でケンイチ殿に聞いておこう。
「これでニュクスしゃんの問題は解決と。では、次は夜会のお話でつね。あたちは夜会に一度出席したいと思っていたんでつよ。ハウゼンしゃん、一緒に行っても良いでつか?」
ニコリと楽しそうに笑って、足を組むアイ様。見かけは可愛らしい限りだが……。やはり裏があるのだろうと、苦笑をしつつ頷くハウゼン男爵であった。