皇女シエラレオネ――聖女、血女、あるいは一人の女性として。
「私と踊っていだたけませんか?」
あたりを華やかなワルツの曲が包み、華やかな色とりどりの光が舞踏会場を照らし出す中、声をかけられた女性は振り返った。
シニョン風に結われた透き通った美しい金髪。その後ろに留められたリボンがかすかに揺れる。
声の主は、グリーンのサッシュを纏い、刺しゅうを施した黒の礼装用の軍服に肩章を付けた黒髪の青年だった。
聞き間違えではないかと思い、女性は心持当惑の表情を浮かべながら、灰色の瞳で青年を見つめ返す。
「私と踊っていただけませんか?」
青年は爽やかなブルーの瞳に人懐っこい微笑を浮かべながら頷いてみせた。
「ですが、あの、私は・・・・・」
女性は助けを求めるかのように周りを見回した。先ほどまで自分の周りにいた面々は男性陣に誘われて次々とダンスホールに誘われていき、付添人も手洗いに行ってしまって一人だけだった。
「失礼、ダンスは苦手でしょうか?」
「いえ、そんなことは・・・ありません」
「では、私では務まりませんでしょうか?」
自分のあまり目立たない文様が刺繍されたワインレッドのドレスを見、相手の豪奢な刺しゅうを施された軍服を見ながら、女性はためらう。
「あなたが良いのです」
その言葉と共に差し出された手を女性は無意識に取っていた。
暖かくて柔らかい。人の肌に触れることができたのはいつ以来だろう。女性が視線を青年の眼に向けると、青年はにっこり微笑み、ダンス会場に誘った。青年は踊っている人々の間にすっと入り込み、二人の周りには自然と二人だけの空間が出来上がった。
魔法で彩色された光が色とりどりの灯りを振りまき、会場の装飾が一気に変化した。二人に合わせるかのように曲目が変わった。
青年は女性の肩の後ろに左手を当て、女性の左手を優しく握り、リードし始めた。緩やかなワルツの曲に乗り、二人のステップは舞い上がるような流れる動きを見せ始める。
色とりどりの色彩が流れていく。それは華やかな衣装であったり、人の顔であったり、オーケストラ奏者であったり。一瞬で過ぎ去るそれは幻影に等しかった。
その中で常に青年の顔だけははっきりと女性の眼に映り続けていた。
曲に合わせるというよりも、曲が二人の動きをエスコートしているようだった。
「・・・・・・・・」
「なんとおっしゃいましたか?」
青年の唇が動き、何か話しかけたような気がして女性は尋ねる。けれど、青年はかすかに首を振っただけだった。一瞬寂しそうな悲しそうな表情が走ったのに女性は衝撃を受けた。
飛空艇が急激に失速したように自然と二人の足が止まる。その時、高らかにフィナーレを迎え、あたりが万雷の拍手に包まれていたのに女性は気が付いた。
「ありがとうございました。本当にお上手です」
元居た場所に女性をエスコートしながら青年が微笑む。先ほどの表情は綺麗に消えていた。女性は思い切って聞いてみた。
「あの、私は何か不都合なことをしましたか?」
「?」
「先ほど何かおっしゃっていたような・・・私が上手く返答できなくて、だから・・・・」
「あぁ、いいえ、何でもないのです。貴女は何も悪くありません。私自身の問題でしたので。むしろ気を遣わせてしまい、申し訳ありませんでした」
「気になさらないでください。あの・・・・・本当にありがとうございました。私――」
女性が何か言いたそうに言葉を継ごうとした時、視界の隅に付添人がいたのに気が付いた。何かを探すように視線はあちこちにさ迷っている。見つけ出されるのも時間の問題だろう。
「申し訳ありません。もう行かなくては」
「ええ」
そのようですね、と青年がつぶやいたときには、女性は片膝を折って一礼し、足早に付添人のもとに急ぐ背中だけが見え隠れしていた。
「殿下!」
その時、青年の下にも2人の人間が足早に近寄ってきた。二人とも軍属らしく青年と似たような軍服を着ている。もっともこちらの方が実質的なものだった。
「ここにおられましたか」
「随分と探しました」
「すまなかった。少し気分が悪くてね、夜風に当たっていた」
二人の軍人は顔を見合わせる。一人は青年と同い年位、そしてもう一人は髪と髭に白いものが見え隠れする初老の男だった。
「・・・殿下、すぐにお戻りください。御父君は開戦を決意されましたぞ」
ひとしきりどよめきが起こったのは、またワルツの曲が始まり、舞踏が始まったからだった。
「そうか」
青年は先ほどの女性が立ち去った方角を見るが、人ごみに紛れて探し出すことはできなかった。
「殿下をここに派遣されたのは、ひとえに平和外交のためと思っていましたが、その殿下がここにご滞在のさなかに開戦を決意されるとは、一体どういうことでしょうか!?」
「声が大きい!ベルトナルト」
初老の男が若者を窘める。
「とにかく殿下、ここにおられては危険です。すぐに脱出いたしましょう。幸い開戦の知らせはここには伝わっていないようですから」
「・・・・・・」
「殿下!」
「あぁ、わかった」
青年の視線の先に一瞬あの女性の横顔が見えた。付添人らしい初老の女性と高官らしい老人らに挟まれた女性は一瞬だけこちらを見た。緊張感を纏っていた顔が一瞬だけ崩れ、驚きと、瞳にかすかなある種の情の宿りが見えた。
胸が締め付けられるようになりながら青年は微笑した。
** * * *
「妃殿下!」
初老の女性が女性を見るや否やこちらにやってきた。そばに真っ白な髭を生やした老人もいる。
「探しました。妃殿下。どちらにいっていらしたのですか?」
「ごめんなさい、ばあや。少し気分が悪かったもので、夜風に当たっていました」
「ショルターゼ、お前がいながら何という事だ。皇位継承者であらせられる妃殿下をお一人にさせるなど――」
「良いのです、じいや。私が悪かったのですから。・・・・それで、どうしましたか?」
声が低くなる。先ほどまでのダンスに躊躇いを見せていた女性の顔はどこかに行ってしまっていた。
「御父君がお呼びです。至急螺鈿の間に来るように、と」
女性はうなずいた。螺鈿の間とは壮麗に聞こえるが、実際は開戦に際して軍事会議が行われる総司令部の別名である。
それだけで女性にはおおよその事情が分かった。華やかだったダンスパーティー会場の照明が急に暗くなったような気がした。
「わかりました」
女性と老人に挟まれるようにして移動する。ふと、視線を感じてある方向を見る。先ほどの青年が人ごみの中に佇んでこちらを見ているのがわかった。そばに2、3人が立っているが顔立ちはわからない。ただ、青年の顔だけはくっきりと見えた。
微笑をしているが、何故だかそれが時たま宮廷に来る道化師の顔に見えた。
** * * *
レオルディア皇国とシンフォニア公国。二つの隣接する国が戦闘状態に入ったのはダンスパーティーが行われた翌日のことだった。
開戦当初、シンフォニア公国は電撃作戦を決行。
2個軍団が可及的速やかにレオルディア領内に侵入し、主要拠点を陥落させる。
レオルディア皇国皇位継承者であるシエラレオネ・ノヴィカ・ニル・フォン・レオルディア上級大将は若年にもかかわらず、一軍を率いて直ちに出陣、陥落した主要拠点を奪還し、かつ、2個軍のうちの1個軍団の後背を封鎖し、撃破する活躍を見せた。
他方、シンフォニア公国次期当主クロード・アルヴィル・レイテ・フォン・シンフォニア元帥はこの敗報を聞くや否や、国内に駐留していた軍を率いて進発、包囲網を電撃的に突破し、包囲されていた1個軍を救い出し、ただちに国内に撤退させることを成功した。
両軍は一進一退の攻防を続けていたが、国力で劣るシンフォニア公国は徐々に劣勢となる。ついには首都を陥落させられ、降伏に至った。
** * * *
幕舎の中で、戦塵と血に汚れた鎧を脱ぎ、新しい鎧に着替えていたシエラレオネは呼び出しに顔を上げた。手早く革のコルセットを締め、その上から黒の長衣を着、さらに銀色の鎧を着る。最後に細身ながらしっかりした剣をさす。手慣れた様子だった。
「どうぞ」
「妃殿下」
ダンスパーティー会場でシエラレオネを呼んだ、あの老人が入ってきた。
「敵軍が降伏しました。一部残敵が抵抗を続けていますが、制圧にはさほど時間を要しません。既に主要な公族は捕えてございます」
「御父様は処置については何といっていますか?」
「妃殿下に一任する、と」
戦いのさ中、後方にあって皇都の玉座から動かなかったものの、その視線は常に前線にいる自分に注がれていることをシエラレオネは理解していた。
戦後の処置についても、次期皇位継承者としてどう動くのかを見定めようというのだろう。
思わず吐息が出そうになるのを懸命に押し殺し、殊更に無表情を作ってうなずいた。
「わかりました」
「これが、公族一覧でございます」
老人が差し出す一覧には、シンフォニア公国の公族の名前が縦に一覧にされており、その右隣には死亡者、捕えた者、そして行方不明者の印がつけられている。
シエラレオネはほとんど知りもしない、あったこともない、公族にはさほど関心はなかった。むしろどうしてこのような戦争を引き起こしたのかを聞きたかった。
レオルディア皇国もだいぶ被害を受けたが、シンフォニア公国の被害は大きかった。特に公都周辺は激戦に次ぐ激戦でほぼ民家は破壊され、あるいは消滅し、無傷なのはほとんどないと言っていい。今も外に出れば、炎と黒煙があちこちに上がっているのが見える。
(急に攻め込んできたのは・・・・あなた方ではないのですか?国土をこのように荒廃させて、民にどのように申し開きをするのですか?)
「既に捕えた者は控えの間に待たせてありますが、いかがいたしましょうか」
「会います」
シエラレオネの答えは速やかに、そして短かった。
幕舎を出ると、近衛の兵や付近の兵たちが一斉に敬礼をささげた。それに答礼しながら、シエラレオネは控えの間と呼ばれる大きなテントに足を進める。居並ぶ兵たちは無傷な者もいるが、傷を負ってそこかしこによこたわり、軍医や看護兵の手当てを受けている者もいる。
一声苦痛なのか、断末魔なのか、大きな叫び声が上がったのが聞こえた。
一瞬シエラレオネは足を止めたが、その声の出所がわからないでいるうちに足は自然と前に出ていた。
テントの入り口を警護する兵たちの敬礼を受け、中に入ったシエラレオネの前に、地面に座る幾人かの影が見えた。煌煌と魔法の光で焚かれたたいまつが中を照らしているが外と中との光度の差があって、シエラレオネは一瞬眩しそうに眼を細めた。正面に据えられた籍の前に立ち、階下に座る捕虜たちを見下ろす。
「レオルディア皇国第一皇女シエラレオネ・ノヴィカ・ニル・フォン・レオルディア上級大将であらせられる!」
側に侍していた近衛隊長が叫んだ。
この呼称には毎回嫌悪感を揺り起こされる。自分はこのような呼称を毎回あらたまって呼ばれることは嫌いだった。皇女として皇族の一人としてそれを受け入れなくてはならないと心に無理やり命じても、やはり嫌いだった。
床に座っていた捕虜たちが顔を上げる。皆手足を縛られて窮屈そうだが取り乱している者はいなかった。
「・・・・・・・!」
シエラレオネは思わず叫び声を出しそうになる。地面に座っている人々の中に、ダンスパーティー会場で踊ったあの青年の顔があった。
「あの青年は?」
かすれた声で老人に尋ねる。老人はちらと青年を見ると、無表情に答える。
「シンフォニア公国次期当主クロード・アルヴィル・レイテ・フォン・シンフォニアです。妃殿下」
シエラレオネは二度目の叫び声を口の中で飲み込んだ。
** * * *
二人だけで話したかった。話したいことは沢山あった。けれど、それもかなう事はない。それどころか、もうすぐ二人は永久に会う事はなくなる。
皇都からの直接の指示はなかったが、シエラレオネはここ数十年の動向を鑑み、公族を死刑にすることはやむなしと考えていた。シンフォニア公国とレオルディア公国の停戦を破るのは常にシンフォニア公国側だったから。
だが、青年を見た瞬間から、その決意はぐらついていた。
二人の視線があった。けれど、シエラレオネの驚きに比して、青年は微笑を浮かべてシエラレオネを見た。そしてかすかにうなずいて見せる。まるであの時の相手を知っていたといわんばかりに。
「何故我が国を攻めたのか、その理由を伺いましょう」
言葉は丁寧だが、口ぶりは容赦がなかった。本当はこんなことを言いたくない、こんな言葉で話したくはない。どうしてこんなことになったのか、シエラレオネの心の中は揺れ動いていた。
「妃殿下、あなたの評判は伺っております。レオルディア皇国の次期皇位継承者として、民を重んじる為政を行ってこられたことから皇国の聖女、あるいは戦場の際には常に陣頭に立たれることから、皇国の血女と呼ばれていらっしゃる、と」
「・・・・・・・・」
「ですが、実際にお会いした時は随分違った印象を受けました」
今この時ではなく、ダンスパーティー会場で踊った時のことなのだと、シエラレオネは理解した。
「そして、失礼ながら妃殿下、あなたは冒頭から間違っていらっしゃる。我が国が貴国を攻めたのではありません。貴国が我が国を攻め続けていたのです。我が国としては、生き残るためには開戦以外にもはや手段がなかった」
他の者が項垂れ、あるいは憤りに満ちた目を向けてくる中、ダンスパーティー会場で踊った青年――クロード――だけが落ち着いた声で答えた。
「この期に及んで何の嘘を言うか!?我が軍がそちらに兵を送った事実など確認できておらぬ!!シンフォニアの手合いは嘘をつくことも恥とも思わない者ばかりなのか!?」
将軍の一人が叫んだが、それにもクロードは動じることなく続ける。
「軍属は常に軍の観点からのみ物事を見続ける。しかしながら、戦争は軍同士の戦いだけではないのです。・・・・貴国は我が国の経済を長年封鎖してこられた」
どよめきが起こった。シエラレオネも衝撃を受けていた。こんなことは今まで聞いた事はない。老人だけがじっとクロードを見つめていた。
「シンフォニアは豊かな農地、そして魔導品精製になくてはならぬ鉱物が採掘できる鉱床がある。ところが、それらを各国に輸出するには貴国の港湾を利用するほかなかった。ところが、数年前から貴国の皇帝陛下は一方的に利用停止を宣言されました。失礼ですが、それを妃殿下、あなたはお聞きになったことはありませんでしたか?」
「妃殿下!!」
老人の満身からの声がテント中に響いた。シエラレオネは老人を見た。老人はすさまじい形相で妃殿下を、そしてクロードを睨んでいる。
「この者の言動をこれ以上聞いてはなりません!!」
「何を言うのですか、じいや。仮にこの者の言葉が正しいのであれば――」
「為政者として耳を傾けてはならない言葉、真実を知ってはいけない事もあるのです!!」
「・・・・・・・・」
シエラレオネは言葉を失って、老人を、そしてクロードを見た。クロードは微笑した。あのダンスパーティー会場で踊った時に見せた微笑を。
どこか悲し気な道化師の微笑を。
「ご心配なさらずとも私はこれ以上何も言う気はありません。敗将に語るべき言葉はなし。貴国の軍に最も損害を与えた指揮官は私であり、実質的に戦争の総司令官も私でした。どうか速やかに処刑なさってください」
「事こうなった以上、もはや言うべき言葉もない。息子も死んだ。儂一人が生き延びていたどうしろというか。全ての罪はこの老骨にある。どうか儂一人を処刑してほしい」
シンフォニア公国当主は公都攻防戦で負傷し、自害していた。その父親である先代当主とクロードが生き残った公族の中で戦を進めた主要人物だった。
私はどうすればいいのだろうと、シエラレオネは思う。
為政者として、次期皇位継承者として、そして、一人の女性として。
どうすればいいのだろう。
それよりも――。
こんな形でしか再会できず、こんな形でしか話すことができないことにシエラレオネはもどかしさと悲しさを覚えていた。
ふと、此方を見つめているクロードと目が合った。今度は穏やかな微笑だった。最初にシエラレオネに近づいたときのあの微笑。
「妃殿下、あなたはあなたの信じる道を進みなさい。それが皇族としてのあなたの務めでしょう」
シエラレオネは理解した。これが、敗軍の将として、捕虜として、そして何よりもあの時一緒に心を通わせた踊り手として、敵国の妃殿下にかけることのできる精一杯の言葉なのだと。その言葉の裏に隠された色々な思いをシエラレオネは受け止めた。
「わかりました」
シエラレオネの言葉に周囲の皆の視線が集まる。この一言の裏にシエラレオネは様々な思いを込めて、眼差しと共にクロードに送った。それが無駄ではなかったことは、直後の彼の表情から伝わった。
シエラレオネは細身の剣を鞘から抜いた。金属の擦れるシャリンという音が響く。脳裏にあの時のワルツの幻想が光り輝いた。
私はどうすればいいのだろうと、シエラレオネは思う。
為政者として、次期皇位継承者として、そして、一人の女性として。
けれど、その答えは、既にできていた。
シエラレオネは細身の剣先を捕虜たちに向けた。