第九十四話 見限りと、危険
本間の死後、彼は上杉家と北条家、両家を繋ぐ〈橋〉となる。
盛昌は彼との約束を守り通し、金提灯を大道寺家の家紋とした。
対し、上杉家家臣として死んだ彼の首は、上杉家へと贈られた。
「……北条家から遣わされた使者から全て耳に致しました。
かつて近江守殿の主君であった大道寺盛昌殿は、
誠に苦き思いを抱えておったそうにございます」
本間の首を受け取ったあの日、上杉憲政は罪の意識に苛まれ、
人を信じる事を忘却に預けてしまった愚かな男だったと、己を卑下した。
憲政は長野業正の話に寡黙を貫いたまま、終始俯いている。
いや、何も言えなかったというのが正しいかもしれない。
〈奴も、其方の息子も、救ってやれなかった〉
憲政の口から小さく、遂に呟かれた言葉に、業正は目を細める。
業正は北条との戦で、息子の吉業をも失った。
陣を攻め立てられ、不幸にも混乱の最中に流れ矢が当たってしまったという。
そんな彼を庇おうとした本庄さえも、撤退戦で命を落とした。
己に沸き上がる罪悪感と悲壮感。
涙も涸れ果てた末にその事実を知った時、業正はどんな表情を浮かべていたのだろうか。
悲壮、哀悼、それとももっと、違う何か。
此度の援軍は、かの出来事を彷彿とさせる。
だからこそ断ろうとした。しかし憲政はそれでも援軍を寄越そうと口にする。
無類の御人好か、己の体裁を保つ為か、それとも唯の阿呆だったか。
「今、我が軍は三千もの兵を失い、援軍に対する士気は低うございます。
それに何方にせよ、私は援軍に加担を致しかねまする。
殿、今一度よく御考え下され」
業正の言葉に眉を顰める憲政。
揺れている、迷っている。
ここで仮にも負けてしまえば、上杉家の信頼は地に落ちる事だろう。
笠原清重を見限るか、勝ちを見越し自らが危険を負うか。
我々に残されているのは、その二択である。
どちらを選んだとしても、後に返ってくるものはある。
ただ見限れば、もう一方より被害は格段に少ない事は明らか。
笠原との縁を切る事になりかねないが、それだけだ。笠原と上杉の兵力からして、まず攻めて来る事など有り得ない。
殿は、それを分かっているのだろうか。
いや、分かっている。分かって悩んでいるのだ。
だとしたら、この男は御人好が過ぎる。
「……業正、儂は決めた」
突然立ち上がる憲政。
天守から天を見上げ、小さく息を吐いた。
「分かっておる。
其方の言う通りにすれば、我等は一人として兵を失う事はない」
「その通りにございます」
業正は頬を緩める。分かってくれたか。
だが、その笑みは男を前にして、一瞬にして崩れる。
「済まぬな、業正。
それでもやはり、儂は何も失いとうは無いのじゃ」
「っ!?」
目を丸くする業正。
憲政の発言。それは、笠原へ援軍を派遣することを意味している。
「お、お待ちください殿!」
「勝てばよいのだろう、さすれば我等は何も失わずに済む」
「いやっ、そうにございますが、勝てる保証など……!」
憲政は振り返る。温和な表情の奥に見えた覚悟。
少なくともそれは、根拠の無いもの。自信とは違う、もっと抽象的な何か。
途端に、業正は言葉を失った。
「……其方が加わらぬというなら、それでも良い。
それまで此の家を頼むぞ、業正」
業正は歯を食いしばる。
そのまま背を向け、去り行く背中を追いながら叫んだ。
「よく御考え下され!!殿!!」
閉まる障子の音が、部屋に響き渡る。
男は唯一人、質素な空間に取り残された。
眩暈を覚えた業正は、その場にへたり込む。
たった一人だけの世界に迷い込んだかのような錯覚。
鳴りやまないのは、庭の苗木に留まる蝉の声だけ。
「使者が参った」
その報告が、内山城代を任せられていた武田家家臣、上原伊賀守の耳に伝わる。
上原が城門へ向かうと、其処に立つのは一人の男。
「御苦労であったな、名を申せ」
菅笠を取り、男は不敵な笑みを浮かべた。
「殿の遣いで参りました。
拙者、武田家家臣、真田源太左衛門幸綱と申す」
次回、幸綱暴走。




