第九十一話 贖罪と、過去 (十)
なんだ、この状況は。
辿り着いた先で待つ、異様な風景。
本間は思わず、険し気な表情を浮かべる。
彼の向かう先は、かつて臣従を誓った上杉の陣中。
其処では、多くの者が酒を飲み騒ぎ立つ、とても戦場とは思えぬ状況。
敵に背を向け続けている彼らに、本間は己の中に沸き立つ怒りを抱えながら歩き出す。
「……近江守?」
酒の席を自ずと離れていた本庄は、その姿を見る。
彼は一度目を疑ったが、旧友を見間違える筈も無い。
その嬉しさが勝り、彼の表情の険しさにも気付けなかった。
主君、上杉憲正もまた、輪の中心で騒ぐ者の一人。
そんな彼の前に現れる本間に、顔を赤くした憲政は驚嘆の表情を見せつつ、睨みつける。
「……何故戻って来た」
「殿、此れは何事ですか」
「儂が訊いておるのだ、問いに応えんか」
やはりそうなるのか。
変わらないのは彼等だけだと、本間は溜め息を吐く。
「私は氏康殿を此の目でしかと見て参りました。
故に分かります、あの御方を侮ってはなりませぬ」
「あの御方、だと?はは、そうか、其方は敵に忠誠を誓っておる身であったな」
吐き捨てるような口調で話を逸らす憲政。
己が氏康に対して劣っている事を、中々認めようとしない。
未だ、憲政は本間が媚びを売ったと思い込んでいる。
違う、そんな話をしたい訳ではなかった。
「いえ、私は……!」
「もう良い、其方は御家を追い出された身じゃ。早々に去れ」
本間は固まる。その場の無数の視線が、彼に刺さる。
邪魔者扱い、この状況にはその言葉が最も相応しいだろう。
それでも動こうとしない本間に耐えかねた憲政は、遂に彼に向け御猪口を投げつけた。
「去れと申しておろうが!!!」
何も言えなかった。いや、言う機会を奪われた。
本間は歯を食いしばり、彼らに背を向けた。
後方で再び騒ぎ始める者達の声を聞く。
まるでこの世の無常さを悟るかの様に、彼は目を細めた。
陽が暮れ、辺りは徐々に薄暗くなる。
一人森を歩く本間は、静かに天を見上げた。
今宵は新月、月が隠れる日。夜襲を仕掛けるには最適である。
二年も共にいれば分かる。北条氏康ともあろう男がこの機を逃す筈はないと、彼は知っていた。
どうにか分かってもらえないだろうか。
いや、それすらも己へ降りかかる罰なのかもしれない。
ここまで来れば、彼は笑うしかなかった。
それは己への嘲笑、自暴自棄。
「近江守」
突如発された背後からの声に振り向くと、本庄藤三郎が息を切らして立っていた。
「......戻らなくて良いのか。勝手に陣を離れるのはまずいだろう」
「流石に、儂も殿には疑問を抱いておったからな。
其方こそ、息子に会わずとも良いのか」
本庄は微笑み、地に座り込む。一匹の蛍が、頭上を飛ぶ。
意地でも戻る気は無いと言うか。
一人になりたかった本間は、彼の様子を見て諦めを覚えた。
「迷っておるな」
「分かるのか」
「其方の事は昔からよう知っておる故のう」
本庄はなぜここに戻って来たのか、この半年間何をしていたのかを訊ねようとはしなかった。
それが本間にとっては、何よりも有難かった。
聞かれてしまっては、また自分を惨めに感じてしまうだろうから。
その時、ふと思い立つ。
この男なら、話を聞いてくれるかもしれない。
生暖かい風に吹かれ、本間は彼に語ることにした。北条氏康という男について。
あの男には、形勢不利な盤面、敵の圧倒的兵力をも簡単にひっくり返す男だ。
勝敗を決めるのは数ではない。十倍にも上る兵力に自惚れてはならない。
それだけを憲政に伝えたかった。しかし、今更聞く耳など持たないだろう。
ただ、だからこそ心が決まった。
「この戦が終われば、儂はここを離れようと思うのだ」
「......そうか」
本庄は本間の発言に驚く様子を見せなかった。
案外予期していたのかもしれない。
忠誠を失った男に向けられた当然の報いだと、彼も同じように思っていたのだろうか。
本間はあえて問わなかった。真実を知る事に抵抗を覚えた故である。
ここを去る暁には、箸でも売りながら地方を渡り歩こうか。
でももし、それすら許してくれないというなら
「それすらも許してくれぬというならば、きっと此処が、儂の死に場所となろう」
微笑み、口にした一言。
北条氏康とはどんな男か。
それを唯一知っている男の、美しくも悲しき決断であった。
過去編、残り二話




