第九十話 贖罪と、過去 (九)
「あれは」
川からの帰り道。不意に呟かれた勘太の声が、上の空だった本間を呼び戻す。
勘太の指さす方に、人が群がっていた。
輪の中心に居座る里丸の表情険しく、語り合う様子が垣間見える。
本間は近寄り何かあったのかと訊ねると、村人の一人が皺を寄せたまま言った。
「戦火が、近くまで迫っておる様じゃ」
本間は口を噤む。
此処へ来てからというもの、縁のなかった言葉。
戦が近くで始まっていたことを知らず、気付くことも無かった。
いつの間にか、平穏な日常に入り浸っていたのかもしれない。
人々の間に静寂が広がる。当の本間は、己が心の奥底に眠る不安を抱えていた。
途端に、かの不安が己の中で膨張を始める。
その正体を探るかの如く、本間は里丸に問う。誰と誰が戦っているのか。
里丸は本間の表情に応えるように、本間を睨みつけた。
「上杉と北条じゃ」
「……は?」
一瞬、呼吸が止まる。
心臓が大きく鼓動を打ち始める。
裏切った家と、かつて臣従を誓った家。
両家の対立こそが己の中に潜む不安の正体であると、直ぐに気づいた。
「如何された、本間殿」
何を訊ねられても、答えられない。
突然始まった動揺を、隠し切れる筈も無かった。
「……本間殿。儂から一つ御聞きしたい」
彼の様子が変化する様を見つつ、里丸は息を吐く様に口を開く。
青ざめ、憔悴寸前の表情を向ける本間。
そんな彼にも、里丸は決して容赦はしなかった。
「御前さんは、本当に何も覚えておらぬのか」
本間は遂に眩暈を覚え、一歩退く。
蝉の声が徐々に大きくなり、辺りを包む。
睨む里丸、怯えた様子の勘太、不審な目を向ける村の人々。
「わ……私は……っ」
体が強張る。額に浮き出る汗。
喉が渇き、声が出ない。
何か、何か言わねば、
焦燥が思考を邪魔する。簡単な言葉すらも、複雑怪奇に捻れてゆく。
〈儂は上杉の家臣だったと、そう口にしても良いものか〉
それは、彼の同様の根底にあるもの。
此処は北条家の領地である。ならば間違いなく、彼らも家臣同様に北条氏康へ忠義を誓っている身。
そんな村人に、《たった一人の敵である》ことを知られるのが、怖かった。
暫く続く沈黙の中で、里丸は突然、息を吐き立ち上がる。
「本間殿、儂に付いてきなさい。他の者は其処で待っておれ」
「......!」
そのまま歩き出す里丸。硬直した身体にほのかな温かみを覚えた本間は、彼の後を追う。
里丸が向かう先は、彼の屋敷。彼は突然、入口の壁の隠し扉を開ける。
これまで存在を教えられなかった本間にとって、それは衝撃の光景であった。
長い階段を下りた先にあるのは、広い地下部屋。
ひんやりとした空気を肌に感じつつ、本間は後を追い続ける。
「......っ」
奥に辿り着く本間は、思わず足を止めた。
色褪せたような槍と刀が数本、壁に立て掛けられている。
「儂は元々、北条家の家臣じゃった。これらは儂の、生涯の形見じゃ」
里丸の言葉に目を見開く本間。
目の前の老人が北条家の家臣であったこと、ましてや武士であった事すら、本間は知らなかった。
そんな本間の反応にも動じず、里丸は壁際に置かれた箱を見つけるや否や、本間を呼ぶ。
「これは」
そこに入っていたのは、見覚えのある鎧。
上杉家時代と北条家に潜り込んでいた時代にわたって使っていた、本間近江守の鎧に違いなかった。
「初めから分かっておったぞ。御前さんが、上杉家に臣従を誓っておられる者であると」
「……っ!?」
「行きなさい。御前さんには、帰るべき処があるだろう」
雪道の残る山中に残してきた筈の鎧。
それを見て、直ぐに本間を敵だと理解していたにも関わらず、助けた理由。
そんなこと、一年半も共に過ごしていれば分かる。
里丸は唯一人、本間を此処へ呼び、誰にも訳を語ることなく村を去ることを薦めた。
それらは全て、本間が村の者に非難されないようにするため。
どこまで優しいのだ、この男は。
ふと、視界が滲み始める。
頬を伝い、ぽたぽたと落ちる水滴が、袖を濡らす。
「う……ぐ……あぅ……」
本間は嗚咽を漏らし、膝から崩れ落ちた。
儂は、何か大きな勘違いをしていたのかもしれない。
自らが帰るべき地を見誤り、ただ平穏という名の理想に逃げていた。
直ぐには気付けなかった。裏切り者への制裁は、己の望む理想から己を引きずり出すこと。
現実を受け入れる事も立派な贖罪であると、優しさが教えてくれた。
それは、一年半の平穏の末に与えられた、小さな対価。
それから二日後、本間は世話になった一人一人に感謝の意を述べ、村を去る。
里丸は村の者に、〈記憶を取り戻しつつある本間には、帰るべき場所へ向かう必要がある〉と説明する。
無論、互いに上杉家臣であることを語ることはなかった。
彼の去り際に声をかけたのは、勘太だった。
目に涙を浮かべる勘太に微笑む本間は、同じ目線になるよう屈み、語る。
「めそめそするな、強かであれ、勘太」
北条家家臣として生きた叔父上は、きっと其方の誇りになる。
其方もいつか、立派な男としてこの村を支えるのだ。
見たかったものだ。この少年が、立派に大成する姿を。
勘太は袖で涙をごしごしと拭き、強い眼差しを向ける。
「本間様。いつかまた、此処へ来てください」
拳を握り、微かに震える声。本間は笑い、頭をくしゃくしゃと撫でる。
きっと戻る。そう言い残し、彼は背中を向け歩き出した。
村が見えなくなると、彼は全力で走り出す。
十分ほど走った薄暗い山奥で、彼は抱えていた袋を開けた。
其処に入っていたのは、一組の鎧。彼はそれを、手際よく身に着け始める。
着付け終えた彼が向けたのは、覚悟の眼差し。
それが何に対しての眼差しかは、分からない。
ただ、本間にとって此度の戦は、とてつもなく大きな覚悟を要するものだと感じていた。
彼は袋を地に置いたまま、再び駆け出す。友の居ぬ戦場へと向かって。
過去編、残り三話。




