第八十九話 贖罪と、過去 (八)
苦しみは最大の苦痛である。苦しみに勝る痛みは無いと、誰かが言う。
なら、裏切り逃げてきた己への罪悪感に勝るものなど、何一つ無い。
心を端から少しずつ蝕んでゆくこの痛みは、あとどれだけ続くというのか。
濁りきった瞳に、光は映らない。初めから罪人に希望などなかった。
これはきっと、己に向けられた天罰に違いない。
半年前
雪の残る山道を、歩く男が一人。
男はついに力尽き、膝をつく。
《帰る場所がない》。幾度と思い、幾度と己を苦しめてきた言葉。
もはや進む気力も、立つ気力すらも無くなってしまっていた。
何故逃げてしまったのかと、情けなさに苛まれる。
寒さで体がかじかんでゆく。身体を流れる血まで凍ってしまいそうな錯覚を覚え、男は死を垣間見た。
男は仰向けに倒れる。うとうとと夢現を彷徨いながら、脳裏に響く声。
大罪を犯した其方には生きる意味が無い。さっさと死んでしまえば楽だ。
目の前に現れる影。その正体を、遂に思い出せなかった。
笑顔で差し伸べられた手が、男の頬を触れようとした時、
遠くなった耳に刺さる、重く低い声。
「……人が倒れておる」
其の瞬間、男に触れんとする手が消える。
男の許へ駆け寄る小さな影。微かで速い、可視化された息遣い。
現実か虚構か、それすら分からなくなってしまう程、身体は限界を迎えていた。
光を映さなくなった瞳で、男は手を差し伸べようとする。身体が生きたいと叫ぶ。
たすけてくれ。
男はそのまま笑みを浮かべ、意識を無くした。
次に目を覚ましたのは、小さな屋敷。
眠るような姿勢のまま顔を右に向けると、ぱちぱちと薪を燃やす火が見える。
「御気付きですか」
何処かで聞いたようなその声は、安堵の息を漏らしている。
男はその主を確認しようと、ゆっくり起き上がった。
其処に居たのは、一人の老人と少年。
恐らく、彼らが自分を助けてくれた人物に違いない。
「……何故儂を助けた」
「あんな雪道でお侍様が倒れておるもんだから、助けねばと思うたものでのぉ」
素直になれない男の問いかけに笑みを浮かべ応える老人。その傍ら、警戒心を露わにする少年。
男を侍だと判断した理由は、召物と二本差しの刀を見ての事だろう。
怖くは無いのか。そう訊ねようとして、男は思い留まる。
そんな問いすらも簡単に笑い飛ばされそうな、軽い恐怖を覚えたからだ。
「お侍様は、何処の御家から御参りに?」
「忘れた」
即答した男は目を細める。それは我が身を守る為の一種の口実。
しかし、いくら信用してはいないと言えども、救ってくれたものに対しての礼儀では無いと思い立つ。
せめて名だけでもと思い、突拍子に発された言葉。
「……儂は、本間と申す」
男、名を〈本間近江守〉は揺らめく火を見つめたまま答え、口を閉ざした。
彼はあえて、近江守の名を口にすることは無かった。
やはり身元がばれてしまう事を、強く恐れた為である。
本間は重く凝り固まった身体をどうにか動かし、やっとの思いで立ち上がった。
「今命、救ってくれて誠に忝うござった。
あまり長居しても其方らの迷惑であろう。じきにお暇させて頂く」
「行く当てがあるのですか?」
本間は目を見開く。
きっと、己の記憶が無いという発言を信じ切り、案じているのだろう。
それはれっきとした嘘だ。心で呟くことは容易だが、発言においては今さら弁解など効かない。本間は頬を掻き悩む。
「よろしければ、当てが見つかるまで、我らの許に来てくださらぬか」
本間は老人の笑みに何も言えぬまま、こくりと頷いてしまう。こうして本間は流れのままに、彼らの許で共に暮らすこととなった。
老人と少年が住むのは、山奥の散村。
外部から隔離された状況で共同体が出来上がっているのは、自給自足を主とした独特の文化の成立によるもの。
初めは其処での暮らしに乗り気ではなかった本間も、やがて彼らの一員として新たな土地で日々を暮らす事に、慣れと快適さを覚え始める。同時に、久々に訪れる戦いと無縁の地に、暫しの安らぎを感じていた。
次第に警戒されていた少年とも打ち解け始め、自ずと話しかけられるようになる。そんな些細な事にも、いつしか喜びを感じるようになっていた。
老人の名は里丸、息子の名は勘太。十年前、勘太が生まれて直ぐに母を亡くし、二人暮らしの彼らは村の外れに立地された家に住んでいる。そんな簡単な事実を知るまでに三ヶ月もかかったことは、情報を多く取り扱っていた以前の自分には考えられないことであった。
人は移り変わって行く。いつか耳にしたような言葉を思い出し、苦笑する。
その様を不思議そうに眺める勘太に、本間は些か恥ずかしさを覚えた。
村の人々は新参者の本間を恐れることなく、親しみを持って語りかけてくれる。
時々憲政達のことを思い出しつつも、本間はそんな暮らしに、忘れかけていた〈幸福〉を取り戻し始めていた。
また後に、己が辿り着いたその村が、《北条家の領地内にある村》だと知ることになる。
どうやらそれほど上杉から離れたわけではなかったことを悟り、己に向け苦笑した。
再び北条領地へと舞い戻った本間だったが、彼自身、氏康にも盛昌にも対面する機会など無いだろうと悟っていた。
そんな彼の喜びはただ一つだけ。
帰る場所が出来たこと。
それは本間にとって、何事にも変え難いことだった。
こうして、季節は過ぎてゆく。
此処へ来て、一年と半年が経つ頃。
勘太と共に洗濯へ向かう本間は、不意に天を見る。
夏が近づく。雨上がりの空は青く、吹き抜ける風が心地良い。
本間は立ち止まり、目を閉じる。
願わくば、ずっとこのままでいたい。
この優しい村の人達との暮らしが永遠に続けばと、そう願っていた。
「本間様?」
勘太の声に目を開け、すまぬと微笑する。
士としての暮らしを忘れたわけではなかった。
ここで暮らしてゆく事を決意するのに、どれほどの勇気が必要であったか。
しかし、ようやく己にこびりついた汚れを、拭えた気がする。
髷を下ろした本間は、強い眼差しで決意する。
次に踏み出す一歩が、何よりも大きな一歩に思えた。
しかし、罪人の現実は夢を見ることを許さなかった。
本間の願いが叶わぬものとなる出来事が目前に迫っている事を、当人は知る由もない。
次回、苦難




