第八十八話 贖罪と、過去 (七)
「殿、只今戻りました!」
「敵は如何程だ」
「それが、関東中の兵が集っており、数万は下らぬかと……!」
氏康は目前で首を垂れる家臣を見つめ、頬杖を突く。
此度の侵攻は今川が先陣を任されていると見ていたが、関東中の兵が集うとなれば、今川の背後には上杉の姿もあるとみて間違いない。
流石は関東管領ともいうべき上杉家だ。そう感じつつも、彼はやはり強かである。
一見形勢不利な状況にも、男は諦めの眼差しを向けることは無かった。
「盛昌。其方はこの戦況、どう見る」
傍に控えていた大道寺盛昌に呟かれる一言。
盛昌は鋭い眼光で、持論を語る。
「殿、戦は数ではありませぬぞ」
「自明よ、言われずとも知れておるわ」
氏康は頬を緩ませた。
その傍らで、盛昌は眉間に皺を寄せ思い出す。
《あの男》も、彼方側にいるのだろうか。
思う度に、苦しさは増す。
いくら北条家の重臣とて、懐古の念を戦意に変えることは、容易では無かった。
包囲開始から三日後、敵側の城に八千もの援軍が雇われる。
氏康は知らぬ間に上杉側の将を調略し、城への道を確保していた。
憲政は全て想定の内だと口にするが、内心は分からない。
それでも、此方側には八倍の兵力がある。負ける筈が無いと、誰もがそう信じてやまなかった。
ただその思いとは裏腹に、連合軍は苦戦を強いられる。
兵糧を莫大に抱え込んだ綱成勢は、約半年もの間、籠城戦を耐え抜く。
次第に連合軍の士気が衰え始めるのが目に見えた。
「流石は北条家じゃ、気構えが違うござる」
吉業は遂に、諦めに似た表情を見せる。
それに対し、此れ程の兵力差にも耐え抜く不屈の精神に、本庄は称賛の意を唱えた。
また半年という予想に大きく反した長期間を経て、次第に侮る姿勢を正す者が増え始めていた。
「敵は予想以上に耐え忍んでおる。
しかし、これ以上の攻撃は、流石に厳しいものがあろう。
兵力差をいかに加味しても、敵の負けは濃厚じゃ。
それは敵も分かっておる。氏康は必ず、我等に降伏の意を示す筈」
肝心の憲政は、士気の低下が著しい上杉軍を再燃させようと意気込む様子は無い。
疲れ切った兵たちに暇を与えるのも良いだろう。それは憲政なりの優しさでもある。
其の後、直ぐに敵側から文が届く。
それは連合軍側に対し、降伏の意を唱える内容であった。
この時、氏康は連合国軍に対し、降伏の知らせを複数送っていた。
彼は幾度と『城兵を助命してくれれば城は明け渡す』という旨の書状を送り続ける。
「殿、ここは様子を伺うべきにございます」
本庄の言葉に、頷きを見せる憲政。
書状での降伏宣言など、一種の口約束に過ぎない。
確信を得るまでは、吟味の過程を踏む必要がある。
そのまま互いの様子を伺う間に、季節は夏へと変わる。
上杉陣には連合国軍の一人、足利晴氏の姿があった。
一度北条の許を攻め込んでしまおうという晴氏の提案を受け入れ、憲政達は攻撃を仕掛ける。それに対し、北条軍は応戦せず兵を引く姿勢を見せる。
その様子に偵察隊は、北条軍の戦意の低さを悟る。それは憲政も同じ。彼は吟味の過程を終え、次第に余裕を見せ始めるのであった。
そんな最中に、男は辿り着く。
河越城は既に何万もの兵が集い、声を上げ攻め立てている様を目に映す。
男は荒い息遣いの中で固唾を飲む。
その男こそ、紛れも無い本間近江守。
彼は友の居ぬ戦場へと、再び走り出す。
この時、男はどちらの大将について思いを馳せていたのか。
それは、彼にしか分からない。




