第八十七話 贖罪と、過去 (六)
こうして、本間は上杉家から消息を断った。
一度裏切った北条家に戻ることも叶わず姿を消した彼は、一体何処へ向かい、如何に暮らしたのか。
それは、史実でも明らかにされていない空白の日々。
そして、一年の月日が流れる。
春、関東管領の上杉憲政をはじめとする関東諸大名で構成された連合軍は、駿河国の今川義元の誘いに乗り、北条綱成の守備する河越城を包囲した。一説によれば関東の全大名が此度の包囲に参加し、その数は八万に上ったとも言われている。
対し綱成の兵力は三千。憲政はこの状況に、笑みを抑えられずにいた。
「油断したな、これで流石の氏康も値を上げるだろうよ」
長野業正の嫡男である長野吉業は、自信に溢れる憲政の言葉を横耳に、陣からの景観を眺める。
三方向から囲う中で、城の南側に陣を立てていた憲政は、既に勝利を確実視していたのだろう。
冬が残る肌寒さに、身を凍らす冷風。吐いた息が白く、宙に溶けてゆく。
吉業の胸の内に得体の知れない不安が潜んでいた事を、憲政は知る由もない。
「吉業殿、如何した」
憲政の傍ら、吉業に語り掛ける男。
彼は上杉陣の守護を任されていた、名を〈本庄藤三郎〉という。
吉業は己の胸の内をさらけ出すかの如く、彼に語り掛ける。
「総勢八万にも上る兵の包囲に、敵の援軍など到底望めぬでしょう。
しかし、私の勝手な思い込みなのかもしれませぬが、
北条氏康殿ともあろう名将が、此のまま我らを前に手を引くとは思えないのです」
吉業が口にするのは、戦闘、政治にも優れた才を持つ男、北条氏康。
これ程の兵力差をひっくり返せるとは、どうしても思えない。
ただ、それでも氏康という男が頭から離れないのは、彼の事を恐れている証だと知っている。
「奇遇じゃ。儂も同じ事を思うておった」
本庄さえ同じ思いを抱えている。しかし、憲政はじめ多くの郎党達はそのような様子を見せない。
やはり考え過ぎなのだろうか。吉業は己の中に言葉をしまい込み、これ以上口に出すことは無かった。
「そう言えば、其方の父は如何した。姿が見えぬが」
「父上は此度の戦には参陣せぬと、そう申しておりました」
本庄は目を見開く。吉業によると、父は今川の捨駒になるだけだと口にしたのだという。
(齢十六の息子を一人で出陣させるとは、業正は何を考えておるのか……)
恐らく親子共々、出陣を断るつもりではあったのだろうが、憲政が其れを許さなかったのだろう。
ただ、それでも息子を一人で出陣させる理由としては不十分だろう。父親が出れば良い話なのだから。
何か不自然だ。本庄の中で、業正に対する不審な心が芽生えていた。
【長野業正の屋敷】
「吉業は向かったか」
業正は息を吐き、縁側で安座の姿勢を取る。
雲の隙間から青空を見る。光の筋が伸びてくる様に、何処か神々しさを覚える。
しかし、そんな彼の心中は〈後悔〉で覆い尽くされていた。
父親として駄目なことをしてしまったと、自らを諫める業正。
此度の敵は北条氏康。彼の事を思い出す度に、脳裏にちらつくのは本間近江守の顔。
中途半端な心持ちで戦に出る事は、死を意味する。
だから、嫌でも息子(吉業)を戦に出さざるを得なかった。
今頃、どこで何をしているのだろうか。
本間の姿を思っては、息が苦しくなる。
上杉と北条が戦うこの状況を、本間はどう思うだろう。
きっと心苦しいに違いない。間で揺れる彼の心は、痛いほどわかる。
目の前に立つ、一本の桜。
其れを見ては思い出す。北条家への間者を勧めた日のことを。
今思えばあの出来事こそが、本間の人生を大きく変えてしまったのではないだろうか。
今年も桜が咲いた。いつか本間にも見せてやりたいと思える日は、来るのだろうか。
業正は目を閉じる。微かな桜の色が、瞼の裏に焼き付いていた。




