第八話 自我、崩壊
【甲斐国・武田家領地】
明くる日、陽が真南に昇る頃までに、俺達は到着した。
「ほぉ、此処が」
想像の幾倍に渡る広大な土地。
それには思わず吐息を漏らしてしまう程。
また、此処から十町ばかり進んだ処が、此度の目的地。
歩く俺達の傍らで、民が頭を下げている。
そんな民の顔色も、比較的良く見えた。
「あそこじゃ」
板垣の指差す先にあるのは、甲斐国の中心部に建つ堅城。
躑躅ヶ崎館という名の、武田の支城である。
「……」
風を切る音が、辺りに木霊する。
俺の身体は徐々に熱を覚える。
遠かれど分かる。俺はいつの間にやら、目前の存在の魁偉さに見惚れてしまっていた。
「ほれ、何をしておる」
板垣の声に、俺は我を思い出す。
思い出し、己が己に苦笑する。
最近はよく呆けてしまうな。
気付けば体の火照りも消え去っていた。
城の中には数多の部屋が存在し、人々が我々の側を往来している。
複雑な入り組み、隠し扉。それを見る誰もが戸惑い、そして思うことだろう。
まるで、迷路の様だと。
それもその筈だ。敵による城攻めを案じて編み出された構造が、城の原型である。
知識さえ無くとも、長年この時代に生きた者ならば分かることだ。
言うまでもなく、俺は城に興味は無い。
それでも見惚れてしまったのは、〈山本晴幸〉という男の性なのだろう。
優美な姿に、赴を覚える。そんな感情が無意識に、俺の意思とは無関係に、〈山本晴幸〉の身体が憶えてしまっているのだ。
(流石は、乱世に生きる男というべきか)
背中に寒気が走る。
俺は微笑み、板垣に声を掛けた。
「板垣殿、其方は召物まで用意してくれたな。
儂を牢人だと侮られぬ様に」
「あぁ、そうでござるが」
その瞬間。
俺の微笑みは、一瞬にして唯の笑みに変わる。
「まだ足りぬ。馬と槍も渡してもらおう」
板垣の表情が変わる。
まるで、俺を毛嫌いするような、そんな表情。
「……良いだろう。
其処の者、晴幸殿に馬と槍を用意してやれ」
「あぁ、城に着き次第で良い。
其方らとて此処まで馬を連れてくるのは一苦労であろう」
板垣は俺の言葉に頷く仕草を見せつつも、目を合わせようとはしなかった。
俺は頬を緩めたまま、鋭い眼光を向ける。
遂に本心を現したか、板垣。
そうだ。儂は、御前のその顔が見たかった。
板垣から授かった馬と槍を門番に預けた俺は、大広間へと案内される。
其処には武田の重臣と思われる男達が、揃いに揃って安座の姿勢をとっている。
皆、目付きは鋭く、羽目を外せば何をされるのか分かったものではない。
「殿は直に御戻りなさる、
此処で暫しお待ちなされ」
「承知した」
俺の頷きを見た板垣は、部屋を離れる。
板垣の姿が見えなくなった瞬間のこと、俺は我を取り戻したかのように目を見開く。
「......!」
途端に手で口元を覆った。
まただ
また出てきやがった。
俺は俯き、平常を保とうとする。
途端に身体が震え出し、拳に力が入る。
唐突な吐き気に、何が起きたのかを瞬時に理解した。
あの時、身体が勝手に嗤った。
そして、見えぬ存在が俺に語り掛ける。
《馬と槍を貸せ》と、そう言えと。
違う、あれは俺じゃない。
俺の中の、悍ましい異物。
全てはそれの仕業なのだと悟る。
(何故、今更......)
俺は険しい表情のまま、以前にも起こった似た出来事を思い返す。
駿河に来て間もないある日のこと。庵原殿から御使いを頼まれた際に、見知らぬ男達に金をせびられた事があった。
恐らく珍しい召物を纏っていた為だろうが、頑なに断り去ろうとした態度が癪に触ったのか、怒り出した男達に俺は胸ぐらを掴まれる。
振りかぶった拳が勢い良く俺の頰に当たった途端のこと。
体感では数秒ほどだったか。
頰と両手に残る痛み。先程まで、目前に立っていたはずの者達が、呻き声を上げながら地に伏せている
呆然と立っている俺は、血のついた拳に目をやる。
こうして、己の身体が彼等の血に塗れていることを知った。
《ひいっ......!ゆ、許してくれっ!!》
中には命乞いまでする者もいたが、混乱していた俺は後ずさりながら、その場を走り去ってしまった。
何が起きたのか、分からなかった。
近くの川で血を洗い流しながら、俺は自身を疑った。
俺は、彼等を、殺そうとしていたのか?
あの日、俺は庵原殿の前で平静を保っていたつもりだったが、内心では酷く怯えていた。寧ろ血まみれの姿に、庵原殿は己の身を案じてくれた。
こうして俺は気付かされた。
己の中に、俺とは違う生物が生きている。
俺は、その存在を恐れているのだと。
汗が身体中から滲み出る。
俺は周りに悟られぬよう、深く呼吸する。
よし、もう大丈夫だ。
息もできる、身体も動く。
俺は、紛れもなく俺なのだから。
「殿の御成りにござる!」
その声に、俺は再び現実に戻される。
そのまま額を畳の上に付けた。
(……)
足音が近付く。俺は固唾を飲む。
今、俺の前にはあの男がいる。
「苦しゅうない、面を上げよ」
想像よりもずっと低い声。
俺はその言葉に顔を上げた。
身体は少しばかり小柄で、月代頭。鼻の下に髭を生やす。
若い。若いが、見るだけで震え上がりそうな雰囲気を、全身から醸し出している。
「そちが、山本晴幸なる者か」
「は……」
青年、《武田晴信》は俺の目だけを見て、脇息に頬杖をついた。
「晴幸とやら。
其方はこの城、如何にして攻め落とす」
思いがけぬ問い