第八十五話 贖罪と、過去 (四)
過去編、第四話
業正の屋敷に響く声。
二年ぶりのその姿に言葉を失う。
思考する間もなく、目前に立つ男を抱擁し、涙を浮かべる。
彼は己の独断で送り出した旧友を、片時も忘れた事は無かった。
「御苦労であったな」
屋敷に招き入れ、茶を差し出しながら発された一言。
本間は唯、薄ら笑みを浮かべる。
逃げてきた。そんな第一声から語られる経緯を、業正は何も言わず聞く。
そういえば、〈あの頃〉よりも髭が伸びた様に思える。
〈あの頃〉と変わった点を次々に見つけては、実感する。
自分の知る旧友の面影が、音を立てず消えゆく様を。
「氏康に惹かれたのか」
一通り語り終えた本間に、最も知りたかった事を訊ねてみた。
そんなことは無い、ずっと上杉家に一図であり、これからもそうだと苦笑ながら語る本間。
業正には誤魔化せる筈が無かった。いや、そもそも訊くまでも無いことだった。
自明な問いと自覚しながらも訊ねる己が馬鹿らしくなり、業正も同じく苦笑した。
(どちらにせよ、明日は殿の許で経緯を語らねばな)
その日は真偽を問うこと無く、二人は同じ部屋で床に就くこととなる。
業正は、部屋を照らす蝋燭の火を吹き消す。
隣で疲れ切ったように眠る本間の姿に、業正は何か得体の知れない、底知れぬ不安を感じていた。
明くる日、憲政の許へ訪れる二人。
「近江守、か?」
顔を出す憲政は暫く、驚嘆と言える表情を隠せずにいた。
二年もの間、北条家の間者として働いた本間。
憲政はそんな彼を誉め、訊ねる。
北条氏政とは、如何様な男であったかを。
「北条氏康は天下の名将にございます」
本間は語る。己がその目で見てきたという、北条家の実態について。
北条家臣は皆礼儀正しいこと、主君と家臣の団結が強いこと。
そのどれもが、北条家の凄さや品格を物語っていた。
しかし、それは同時に上杉家の劣りを露呈する発言でもあった。
憲政の表情が、徐々に曇り始める。当然のことだ。
憲政にはまるで、己が劣っているのを婉曲的に指摘されているようにしか思えなかった。
憲政の明らかな変化を察した業正は、言い過ぎだと発言を止めさせようとする。
しかし本間は聞かなかった。声が徐々に大きく、太くなってゆく。
業正は気付く。本間は、ありのままを語っているに過ぎなかった。
上杉家との違いによって生まれた、焦燥と怒り。
其れが生み出す、理性を無くした男の姿を、此の目に捕える。
あぁ、そうか。この男はただ上杉を批判する為に此処へ来たのではない。
誰よりも上杉の事を考え、憲政の為に語っているのだ。
気付く業正は、鋭い睨みを利かせる憲政の目を見た。
業正による必死の説得の末、憲政は百歩譲ってそれを許し、質素倹約に勤めるという発言に至った。
それだけでは終わらなかった。
ここからである。本間の許に降りかかる地獄が、牙を向け始めるのは。
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