第八十二話 贖罪と、過去 (一)
大幅改稿しました。(12/4)
第3章の要となる《過去編》
少しばかりお付き合い下さい
数年前
男は、桜の木の下に立っていた。
見上げれば雲一つない空に、一匹の白蝶が羽を広げている。
春風を浴び、風に吹かれる花を追いながら、男は目を閉じる。
「近江守殿、少し話があるのだが、宜しいか」
長野業正の声に、男は我を取り戻し、振り向く。
直ぐ行くと、そう口にして彼は微笑んだ。
本間近江守、それが男の名である。
業正と同じく上杉憲政の許に仕え、与えられた仕事を手際よくこなす彼には、業正はもちろん、憲政からも人望があった。
領内でも比較的大きな門をくぐり抜け、見えてくるのは業正の屋敷。
居間へと通され、向かい合う形で安座の姿勢を取る二人。何処からか聞こえてくる鳥の囀り。
「さて、此度は其方に、北条家についての提案があるのじゃ」
「北条家、にござるか」
本間は訊き返し、業正は頷く。
この頃、勢力を急激に拡大していた北条家。
同じ関東を守護する者同士、いつかは相対する事になろうと、業正は危惧していた。
「近日の殿は家臣に贅沢を許し、娯楽を嗜まれておる。
しかし、ちと度が過ぎるように思うのだ。
このような時に北条が攻めて来るとなれば、大事ぞ」
業正の言葉に、本間は腕を組む。
主君である北条氏康に才がある、それが北条家の急激な成長が見られる理由として間違いない。
少なくとも、憲政と氏康、一対一で対峙すれば叶わないことは目に見える。
それならば贅沢を減らし、少しでも主君として真面になって貰いたいと思う。
そんな両者の利害は一致していた。
早速、二人は憲政の許を訪れ、勧説する。
しかし、その贅沢についてさえも、憲政は聞く耳を持たなかった。
「儂は忙しいのだ。それを癒すことの何が悪いのじゃ」
憲政が口にするのは、その一点張り。
必死な説得の末、遂に諦めた二人は、渋々その場を退くのだった。
陽が沈み、その日も盛大に開かれた酒宴。
遠くで酒盛りを聞きながら、二人は別室で茶を飲む。
彼らの間に、会話は無い。
如何すればよいのだと、業正はただ頭を悩ませる。
憲政は《関東管領》という立場に、余裕を見せているのかもしれない。
だが、いずれ必ず北条は攻めて来る。そう信じてやまない業正にとって、この状況は既に〈負け〉を意味している。
湯呑が光り輝く円を映す。それを眺める業正は、ふと顔を上げた。
「……そうじゃ、近江守殿。ひとつ手がある。
我々から北条家に、間者を潜り込ませるのじゃ。
さすれば北条家中の情勢もはっきりし、殿を説得する口実にもなる。」
「しかし、その役目、誰が担うというのだ」
業正は唾を飲み、覚悟を決める。
「行ってくれるか、近江守殿」
途端に、本間の表情が変わる。
危険な頼みであることは、十分承知の上だ。
それを本間に頼もうとするのは、業正が彼の事を信じているから。
暫く放心に近い状態で悩む本間。遂に幾度と頷き、業正の目を捉える。
「……承知した。業正殿の命ならば、聞き入れよう」
彼は全てを受け入れると言わんばかりの、そんな強かな表情を浮かべていた。
後日、本間は禁制とされる鹿狩りを行い、憲政の怒りを買う。
その傍らで、業正が北条への間者を憲政に提案した。
憲政は直ぐさま理解を示し、それで良いと即答する。
出立の朝、彼を見送ろうと、数名の家臣が集まる。
その中には勿論、業正の姿もあった。
「このような形をとってしまい、誠に済まなかった」
「案ずるな。これで殿の御気持ちが少しでも変わって下されば良いのじゃ」
本間の言葉に、業正は薄ら笑みを見せる。
俺は本間の胸をどんと叩き、言った。
「くれぐれも、道中気を付けよ」
「あぁ」
本間は背を向け、歩き出す。
遠ざかる背中を、業正はただ眺め、息を吐く。
桜は既に花を散らせ、緑に色づき始めている。
不意に見上げる空には、一匹の蝶。
寂しげな姿が、まるで旅立ちを共に見送っているように見えた。




