第八十話 武田、震撼
先陣が志賀城へ向かい、早一時間。
武田陣中は開戦直後からというもの、妙に静まり返っている。
当の晴信でさえ、頬杖を突いたまま語ろうとはしない。
城攻め含め、戦の流れを左右する大きな要素となるものは情報である。
実力や兵力と匹敵、あるいはそれよりも重要となるもの。いわば戦は一種の《情報戦》ともいえる。
しかし、此度は情報の交錯が少ない。
故に我等は〈何も出来ない〉のである。
俺が横目で見るのは城の方向。
そこから聞こえるのは、何やら〈がや〉に似た声。
戦が始まったのか?しかし何処かの地で戦が始まれば、報告する役目を担う者も必須。
ただ此度は厄介なことにそれがない。そんな時には自陣から偵察隊を遣わせなければならなくなる為、此方側としては二度手間を追う事になる。
晴信の表情が徐々に険しくなる。
現在あの地で何が起きているのか。其れを知る術を絶たれている故である。
俺は晴信が手間を嫌う男だと知っている。
小規模の城攻めごときに、下手な面倒をかけたくは無いのだろう。
「貞清め、高遠と同じく裏切ったのかもしれぬな」
嘲笑を交えた言を発する晴幸を、俺は睨みつける。
此の男の言う事は信用しない。何故なら何方にせよ、貞清が我等を裏切ることなど不可能だと知っているからだ。此度は貞清に対し、単独行動を許すことはなかった。その理由は言わずもがな、石井藤三郎や高遠頼継の事例に有る。
結局はそれら全て、晴幸には分かっている事。つまり先ほどの発言はすべて、彼なりの冗談。
このような厳粛な場で冗談を零す空気の読めない男を、俺は心の内で諫める。
ただ、俺の心を覆う靄は一向に晴れない。
もしや自陣への遣いを向かわせることが出来ない程に、彼らは苦戦を強いられているのか。
少なくとも、これでは敵側の援軍が到着しても気づけない。
やはり晴信の決断を促す他ないのだろう。
そう思い口を開こうとした瞬間、陣に転がり込む一人の男。
息遣い荒いまま、男は片膝をつく。晴信は男を睨み一言。
「遅い、何をしておった」
「申し訳ありませぬ!
遣いの者が敵の矢で倒れ、かつ多田殿を先陣に苦戦を強いられております故、
遅れてしまいました!」
晴信はふんと鼻息を鳴らし、照り付ける太陽の許で扇を広げる。
「まあよい。何の用か申してみよ。
「は!板垣殿によると、敵の援軍は既に到着しているとの事にございます!」
「な、何っ!?」
突然の言葉に、俺は思わず立ち上がる。
驚きを見せる者多数。その中で唯一、晴信だけは平静を保っていた。
「其れは誠か?」
「は、城北側に上杉の旗印が立ち、
弓衆の召物に上杉の家紋が描かれて居るのを、此の目で見受け致しました!」
俺は地を向き、歯を食いしばる。
迂闊だった。先に援軍が到着して居ないことが前提だと、完全に思い込んでしまっていた。
分かっていた事ではあったが、やはり史実通りとはいかなくなっている。
俺は頭を掻き、再び座る。
いや、策自体が失敗した訳ではない。
それよりももっと、《根本的な何か》。
「このままでは兵の数が足りぬ!
殿、城に援軍を送りましょうぞ!」
「否、其れには及びませぬ」
俺は静かに顔を上げ、晴信を見る。
「旗印のみでは、援軍の有無は判断できかねまする。
憲政殿の姿をその目で見ぬ内は、真偽は定かではないでしょう」
俺はそう言い、額に垂れる汗を感じながら顎を引く。
焦燥と共に、思い出される言葉。
目に見える物こそが本物だと、教えてくれたのは御前だったな、晴幸。
俺は再び思考する。この状況をいかに動くかによって、戦の流れが変わるといっても過言ではない。
筆頭家老である板垣は恐らく、最も晴信と各地を巡っている程の間柄。
ならば少なくとも、諏訪頼重との領土分配の件において、憲政との面識はある筈だ。
恐らく旗印で判断をしている所を見ると、彼は憲政の存在の有無を把握できていない。
これを確実視する為の方法は、一つ。俺は遣いの男を睨み、こう言った。
「板垣殿に伝えてくれ。我々は援軍の存在が明瞭となるまで、其方等を助けはせぬと」
〈俺〉の本領発揮。




