第七十九話 北側と、南側
【出立の朝】
「大井殿」
飯富の言葉に、疑問の色を浮かべる貞清。
しかし飯富は何も語らず、ただ目的の地へと馬を動かす。
言えない。訊けない。彼が先立って出進を命じられた理由。
土地勘があるというのは、単なる詭弁だと知っている飯富だからこその問い。
ただ飯富は葛藤していた。貞清に訊ね得られるのは、貞清が晴信に如何に思われているかという事だけ。其れが良い意味か悪い意味かは、此処では議論する必要は無いだろう。
「済まなかったな」
飯富の言葉には幾つもの意味が含まれている。
その全てを貞清が理解出来ていたかは定かでないが、貞清はただ頷き、此れ以上を語らなかった。
そして今に至り、飯富は多田と二人。
己の中に溜まり続ける言葉の吐き出し口も見つからぬまま、彼らは城の南側へと向かう。
飯富に付く貞清とて同じ。飯富の内から、言葉と真意を引き出せずにいる。
彼らの耳には、微かな法螺貝の音。その元を探ろうとするも、肉眼では捕える事すら叶わない。
「此度の戦は、敵の降伏を促す為の策でもある」
晴幸の言葉が頭を回る。戦わずして勝つ、晴幸らしい策だ。
徐々に近づく志賀城の姿は、想像を遥かに凌ぐ大きさ。外側から崩すというのは、難しく思える。
何よりも飯富が警戒しているのは、城の見張りが少ないこと。見えるだけでも十人いるかいないか。
我々が佐久郡制圧を視野に入れ、攻め込もうとしている事など、当の昔に分かって居るはず。
我々を誘き出すつもりか、それとも単純に兵の数が少ないだけか。内山城と真逆の状況に、迷いを生む。
北側の状況によっては、攻め込むことも考えねばなるまい。飯富達は彼が遣わせた使者の帰還を待ちつつ、茂みに身を潜めるのだった。
一方、板垣と甘利率いる精鋭たちは、城の北側へと向かう。
此度、晴幸の提示した策は、我らの力無しでは成り立たない。故に彼らは覚悟の表情を浮かべ馬を進める。夏の日差しが照り付け、滲む汗。其れを拭いながら、鋭い眼差しを前方に向けている。
そんな中、後方から偶然耳に入る声。
「風の噂なのだが、此度の貞清殿の働き次第では、御父殿の解放も御考えなさる様じゃ」
途端に、板垣の表情が変わる。
思わず後方を向く板垣に、声の主は口を噤んだ。
「……其れは誠か?」
「は……噂にございます故、私には何とも……」
板垣は混乱する。解放など考えてもいない筈の晴信が、何故そんなことを?
真偽が確かでない事は分かる。ならば何故このような噂が出回るというのか?
板垣は首を振る。今はそんな事を考えている暇は無い。
三町ほど手前まで近づく彼らは、一度馬を下りる。
「見張りの数、おおよそ二十足らずにございます」
「少ない……どうなっておるのだ」
板垣は顎に手を当て思考する。
意図なくがら空きにする筈は無い。現にここまで、一人の刺客とも出会わなかった。
(何か厭な気がする。いや、そう思わせるのが敵の狙いなのかもしれぬが……)
志賀城の者等はやはり、援軍か何かを待っているのか?
「志賀城の者等もどうやら、動き出す様子も無い。板垣、一度我らの兵を散らばせてはどうか」
「……そうじゃな」
多田の言葉に、板垣は頷きを見せる。
其の瞬間、矢が一人の兵の頭部を直撃する。
「!?」
刺さった男は白目をむき、血を噴き出しながら足元へと倒れた。
「奇襲じゃ!皆伏せよ!!」
甘利の言葉と共に、城の方向から多くの矢が飛び向ってくる。
「どういう事じゃ!?我らの居場所が知られたというか!?」
板垣は歯を食いしばり考える。遂に何かに気付いたかのように目を見開き、不意に立ち上がった。
「板垣殿!危のうございます!!」
その時、板垣の頬をすり抜ける矢が、彼の頬に鮮血を現す。
其れでもなお、板垣は目を凝らす。
彼の目に飛び込むのは、一本の旗印。
それも、上杉家の家紋が入った旗印である。
まさか、援軍は既に到着していたというのか?
板垣の息遣いが荒くなる。
既に、敵の策は動き出している。それに気づく板垣は、直ぐ様屈み、家臣にこう言い伝える。
「南側の状況を知らせよ!
そして今直ぐ大井殿と奴の家臣を此処に呼べ!」
気付くのが遅かった。
敵の策は既に、動き出しているのだ。




