第七十八話 集結、小田井原
【上野国・上野平井城】
城主上杉憲政の許へ、笠原からの書状が届く。
「武田め、遂に此処まで迫りおったか」
憲政は己の声の震えを、抑えられずにいる。
何処か不安気な表情を隠し切れて居ない。
上杉家重臣、長野業正が零す、小さな溜め息。
それは目先の男を見下げ果てたかの如く、嫌悪の表情を伴うものであった。
肝心の本人は、それに気付く様子は無い。
上杉家と武田家は元々、あるきっかけによって互いの名を知ることとなる。
強いて言えば、憲政が不安を感じる要因もそこにあった。
その出来事を語るには、天文十年(一五四一年)にまで遡る必要がある。
その年、村上義清・諏訪頼重、武田信虎らは信濃小県郡へ侵攻し、海野平の戦いで海野棟綱を破る。その後、棟綱は隣国である上野国へ逃れ、憲政に救援を求める。
同年七月、救援の為に佐久郡への出兵を行う憲政の前に現れたのは、諏訪頼重。
「和睦を申し込みたい」
頼重はかつて同盟関係を築いていた武田家と村上家に無断で憲政と和睦し、所領を分割する。
其れこそが晴信と憲政の出会い、また晴信と頼重、二人の仲に亀裂を生み出すこととなる出来事であった。
「笠原は、上杉こそが頼みの綱だと申しておる」
そんな憲政からも、誇らしげな表情を垣間見る。
業正の眉に皺が寄る。己の持つ我慢の限界点を悟り、大きく咳払いした。
「此度の援軍、私は同意いたしかねます」
「何故だ」
「訳など、誰よりも分かっておいででしょう」
そう口にし、業正は外を眺める。信濃には雲一つない空が広がっている。
それは大きな陽炎が浮かぶ、暑い夏の日のこと。
「此れより、志賀城を包囲致す」
戦前最後の軍議が始まる。俺は地図を広げ、飯富隊と多田隊に城の南側、板垣隊と甘利隊に城の北側へ向かい、他の隊は彼らの傍らで城を包囲するよう指示する。
此れこそが、俺が一晩かけ編み出した、《敵が内山城を避け志賀城へと兵を進めた時の、最善最良の陣形》。
どうだ、晴幸。
己に問い掛けた直後に、脳裏に声が響く。
うむ、中々良い。よく考えたものだな。と
晴幸に策について褒められるのは、今回が初めての事。
つい嬉しさを覚えるが、ぐっとこらえる。
何故なら、此れが〈史実通りに事が進む〉事に繋がるとは限らないからである。
俺は出陣前、俺が幸綱の屋敷を訪れた日の事を脳裏に思い返す。
幸綱は言う。史実では武田の勝ちで幕を閉じる、それ以外は分からないと。
そうかと言い俯く俺。その様子を見た幸綱が、不意に出す呟き。
「今となっては、史実など当てにならぬのかもしれぬな」
二人の間に沈黙が続く。
彼の言う通りかもしれない。一度狂った歴史は、取り戻せない。
もし本来の史実が正しく、目の前に広がる歴史が偽物なのだとしたら、
俺達は何を信じて、何を疑えばいいのかも分からなくなる。
もしそうだとすれば、俺達が居るこの世界は模造されたパラレルワールドの一つであり、此処に居る人々は皆、同じ姿形をした《模倣品》。
そうだとしても俺達は《今》を生きるしかない。
今という歴史を、正しいと信じる他ないのである。
「分かった、其方の言う通り、武田を勝たせよう」
「幸綱の事を、すっかり信じ込んでいやがるな」
「悪いか」
軍議の後、暑い中熱弁をふるった影響で疲れ切った俺を見て、晴幸は嗤う。
俺は睨みを利かせながら、彼に訊ねたかったことを此処で問いかける。
俺が甲斐に来て、幾度と考えたこと。
「晴幸、御前の思う本物とは、何だ」
晴幸は天を見上げ、悩む素振りを見せる。
「本物は目に見え、偽物は決して目に映さぬ唯の想像。
悩む必要も無い、ただそれだけのことよ」
俺は黙り込む。此の男は、己の存在を肯定している。
ただ仮に異物としての存在であるならば、其れは己が作り出した一種の幻想に過ぎない。
「其処まで申すというのならば、儂という存在が誠か偽りか、賭けても良いのだぞ」
「生憎、其方の趣味に付き合う暇は無いものでな」
それでも、面白そうだと思ってしまった。
少しずつ身体が熱くなるのを感じる。
山本晴幸。此の男はきっと、戦というものを心から楽しんでいるのだ。
己の欲を満たす興奮を、味わおうとしているのだ。
その時、遠くで法螺貝の音が鳴る。
陣太鼓の音が山彦し、幾倍もの音を作り出す。
まずい、急がねば始まってしまう。
気付けば晴幸の姿はもう、其処にはない。
俺は老い重くなった体を動かし、かの地へと走り出すのだった。
佐久郡制圧の為の戦が、いま始まる。




