第七十六話 独断と、偏見
絶望を覚え、理想との間で揺れ動く者がいる。
此の世に生まれ落ちた事を、酷く嘆く者もいる。
何も特別な事では無い。
人である限り、感情というものは少なからず存在するのである。
それは、この国の未来を知る者とて同じ。
現に俺は、時の流れに留まり続ける錯覚を覚えていた。
死を知った日の事を、俺は幾度と思い返す。
死の価値観が変わり、生を軽視する。
死した人の様を目前にして、何も思わない。
乱世が、俺を変えてしまったのだろうか?
いや、それは違う。
死を知らずして、生を当然だと思い込む者達。
乱世は何も変えちゃいない。奥深くに在る、根底的な何かさえもである。
生きたいという生理的欲求は、いつの時代でも存在する。
ならば、現代に生きる者は、俺達と何ら変わらないといえるだろう。
限りなく残酷な世界で、俺は気づく。
《未来を生きる者も、過去を生きる者も、皆同じ》なのだと。
「山本殿、殿が御呼びじゃ」
耳に馴染んだ其の声に、俺は我を取り戻す。
ああと返事し、一口だけ水を飲む。
瓢箪を仕舞い立ち上がる俺の目に映るのは、多田三八郎。
宮川での戦において、先鋒大将を務めた男である。
そう言えば、此の男と話したことは一度も無かったな。
俺は不意に、彼から目を逸らしてしまった。
いかにも硬派な雰囲気を醸し出す多田に、怖気付かなかったと言えば嘘になる。
単に此の男は苦手だという、己の偏見じみた独断による行為。
無論、良くない事だと頭では理解して居るが、どうも身体が勝手に動いてしまう。
「絶好の戦日和であるな。今日は存分に腕が振るえそうじゃ」
突然耳に刺さる声。俺は目前の対象をまじまじと見る。
一瞬、信じられなかった。歴戦の勇士と名高い彼の、新たな一面を垣間見た。
あの多田三八郎が、子供の様な屈託なき笑みを浮かべていたのだ。
途端に、身体が軽くなる。何故この男を恐れていたのか、分からなくなる。
「……ああ、そうだな」
俺は苦笑しつつ、呟く。
凝り固まった身体が、ゆっくりと解れてゆく。
やはりそうだ。人間の思い込みなんて、所詮そんなものである。
それにしても戦日和だなんて、この男は酷くおっかないことを言うものだ。
「此度の戦、其方は先陣に付け。
陣形の指示等、其方に任せようではないか」
陣中へ赴くや否や発された晴信の言葉に、俺は少しばかり驚嘆する。
いや、確かに予想はしていたが、此処まで唐突に伝えてくるものだろうか。
しかしそうなると、多田三八郎に俺を呼ばせたのも、何か意味がある上での行動だとも思えてきた。
「晴幸。此の戦、要となるものは何じゃ」
再び問われた俺は、頭の中で策を整理する。
幸綱の言う手立てというのは、恐らく敵の《援軍》の事を指していると思われる。只でさえ佐久郡へ攻め込む我らのアウェー戦だ。援軍は幾らでも期待できるだろうが、その中でも敵が最も期待しているのは……
「勿論、〈上杉家〉の存在にございます」
俺はそう、はっきりと口にした。
上野国領主、上杉憲政。彼が如何動くか、この戦の勝敗は其処で決まると言っても過言ではない。志賀城は上野国との国境に近く、国境を跨ぐ峠で両国が通じている。また笠原清重の家臣と上杉家には縁があるという理由もあり、援軍としてはうってつけだ。
「あいわかった。して、内山城には伊賀守に任せて居るが、如何程の人手を集めるつもりじゃ」
三度目の問いに、俺は一度俯く。
俺は陣を立てる間に、高台から近辺の土地を偵察していた。実を言うと志賀城の南側に内山城が建てられているのだが、その近辺にも上野国と通じる峠があり、其処から攻め込んでくるという可能性も考えられる。晴幸が問うのは、そこの守備にどれ程の兵を送らせるかというものである。
「......殿。
其れについて、私に少々策がございます」
「何じゃ、申してみよ」
晴信は俺の顔を覗き込む。途端に見上げる俺の表情を見て、彼は目を見開いた。
「此度の戦、内山城に援軍は送りませぬ」
「っ!?」
予想外の発言に、晴信の傍に控える幾名の男達が言葉を失う中、
まるで自身に満ち溢れた笑みを、其処に浮かべていた。
その笑みの奥にあるものは




