第七話 晴幸、熟考す
甲斐は、駿河上隣にある。
現在の山梨県に位置し、人は其れ程多い訳ではない。
ただ、其処を治める男には、絶大な人望が有る。
武田晴信。駿河に留まっていた俺でさえ、名くらいは聞いたことがある。
その名を知らぬ者は、この近辺にはまずいないだろう。
俺達はこれより駿河から甲斐へ向かうことになるらしいが、武田晴信の元へ一日の内に辿り着けるだろうか。
答は否だ。その理由は様々あるが、主な要因は板垣達が馬を使わないことにある。
もしや、歩くことに何か意義でも感じているのか。
何にせよ、俺は苛立っている。
さて、話を戻そう。
俺はこれより、武田晴信の元へ向かう。
この時代に憧れる者は、俺の様な境遇を羨ましがるのだろうか。何にせよ、俺にはその気持ちが全く分からないのだが。
「じきに日が暮れる。此度は此処で夜を明かそう」
日が傾き、板垣の言葉に応えるかの様に、御付きの者はぞろぞろと動き始める。薪を割る者、火打ち石を打ち、その薪を焼べる者等様々であるが、当の本人は何もしない。
「其方は客じゃ。任せておけば良い」
板垣の発言に頷きを見せつつも、男達の働き様を見ていると、やはりじっとはしていられないものだ。
俺は「手伝うぞ」と語り掛けるが、相手は笑みを浮かべ、「忝うござる」と返すのみである。
仕方なく、俺は川魚に木串を刺し、火にかける。
そして頬杖を突き、火の揺らめきを眺めてみる。
ぱちぱちという弾ける様な音が、何処か心を落ち着かせるのだ。
(確か、薪の中の水分が蒸発して、
外に出る際に木を突き破る音だと、
何かの本で読んだことがあったな)
乾き切った薪では、此の様な音は鳴らない。
だから知識のある人は、しばしば湿った薪を使うのだという。
食事を摂り、皆が寝静まる頃。
俺は只一人、木を背に座り、満天の星を眺める。
あの夢での俺は、やはり武田の家臣だったか。
板垣やその御付きの者の召物に描かれていたのは、四つ割菱の家紋。
やはり、あれは唯の夢では無かった。
俺は無意識に、俺自身の最期を見たのだ。
きっと俺は、来るべくして此処に来たのだろう。
がさり
俺は乾いた音に反応する。
誰かが来る。そう思う間に、叢から顔を出す一匹の狸。
「御前も眠れぬのか」
俺は笑みを浮かべ、手を差し出す。
狸はまるで俺のことは気にも留めぬというかのように、叢へと戻ってゆく。
俺は微笑みながら、その背中を目で追った。
どうやら、俺に気を向けてくれる者は、此処にはいない様だな。
狸の姿が見えなくなると、俺は目を閉じる。
そう言えば、一つだけ分からないことがある。
夢の中で、俺の側にいた女性の顔。
あれだけは、何故か思い出せない。
(あの女性が若殿であれば......)
俺は我に帰り、何を考えているのかと自身を諌める。
それにしても、運命というものは残酷だ。
残酷な運命を受け入れねば、前に進めないのだから。
俺がこの時代の、この男に転生したのも、
きっと何かの運命なのだろう。
その様なことを考える内に、俺は眠りにつく。
こうして、今日という日が何事も無く更けてゆく。
何ら変わりない朝を、俺はまた、待ち侘びる。
次回
異物が蠢く。