第七十五話 面影と、苦しみ
それから間もなく、武田本隊にも出陣の命が下る。
出陣の朝、俺は城内の武庫へと赴いていた。
閑散とした武庫には、冷たくかびた空気が広がる。
それを肌で感じつつ、俺は自身の刀を手に取り、腰に差す。
落ちない様に固く結び、姿勢を低く構え鯉口を切る。
かしゃりと音を立て、隙間から刃が見えた。
よし、滑りもいい。俺はほっとした面持ちで、刃を鞘へ仕舞う。
先程の行為は、俗に言うメンテナンスのようなもの。
戦の度に行い、敵の不意打ちにも抜刀し対応できる様に、確認を怠らない。
ただ、俺には習慣化したこの行為が、戦の始まりを予期している様でどうも心臓に悪い。
今回も前回同様、この刀の出番が無いことを切に祈るばかりである。
此度の戦は、そう巧く事が運ぶことはないだろう。
強いて言えば、《敵の軍勢がどう動くか》にかかっている。
敵の動きを察知する目、動きによって的確な策を講じる対応力、つまりは参謀の腕の見せ所と言える。
「晴幸様、参りましょうぞ」
弥兵衛の呼び声に応える俺は、呟く。
俺にかかっているというのは、大袈裟だったかもしれないな。
どちらにせよ、俺の使命は揺るがない。
《何があろうと、生きて此処へ戻って来ること》
其れを己の胸に秘め、俺は弥兵衛の立つ方へと、向かうのだった。
其の頃、晴信の部屋にて。
鎧を着ける晴信は、ふと傍に立つ男を横目に見た。
「……如何されましたか?」
晴信は目を細め、何でも無いと口にした。
やはり気のせいだ。
暑さで、おかしくなってしまったか。
一瞬だけ此の男が、石井藤三郎に見えた。
依然は、家臣の着付け役を任されていた藤三郎。
その面影が、今も彼の中に残っている。
そうか。もう二年も経っているというのに、奴は未だに晴信を苦しめるのだな。
晴信は目を閉じた。
蝉の鳴き声。思えば諏訪頼重の許へ攻めた時も、雲一つない夏の日であった。
応えよと、彼は微笑む。
此れは、其方に殺しを命じた儂への業だというか。南部。
「殿、貞清殿の居ぬ間に、内山城は何方に任せる御積もりで?」
「内山城代は、上原伊賀守に任せる」
家臣の言葉に、晴信は前を睨む。
そうだ、過去こそ一種の幻想だと、儂は知っていた筈だ。
晴信は今を、その先を見据えたまま、拳を握る。
彼の目に映る旗印が、夏の風に強く靡いていた。
真夏の日が照り付ける中、俺達は二ヶ月ぶりに佐久郡へと向かう。
多量の汗が頬を垂れる。瓢箪一杯の水では耐えられそうもない。
途中に川がある事を知っていた俺は、其処までの辛抱だと、己に向け諭す。
同時に周囲の様子を確認するが、皆音を上げる事無く己が身を奮い立たせている。
それは幸綱とて同じ。俺は彼が出陣前に口にしていた事を脳裏で反芻する。
《前の戦で、大井一族が壊滅状態になったことにより佐久郡の大半が武田に制圧された訳だが、笠原が依然として我等に尻を向けないのは、奴に未だ伝手があるからじゃ。》
武田としては、それを取り潰すのが最適なのだろうが、焦りは禁物である。
問題はそれだけではない。笠原が守備する志賀城の周辺の地形には、厄介なものも多い。それに地の利は言わずとも彼方に在る。
其れこそが、事が巧く運ぶことはないと口にした、大きな要因である。
やはり、俺の器量が試されるんだろうな。鼓動が早くなるのを実感しつつ、俺は小さく呟いた。
一週間前
「殿、武田家が何やら、動きを見せておる様で……」
「そうか、御苦労であった」
男は頬を緩め、家臣にそう告げる。
「遅かったな晴信。
如何やら其方を、巧く騙せたようじゃ」
睨みを聞かせながら呟く男、笠原清重は立ち上がった。
「援軍は到着したな」
「は、藁を被り、目立たぬ格好で山を二つ超えたと申しておりました」
「良い、いずれまた呼ぶ事になろう。
其れは、武田を完膚なきまでに叩きのめす時じゃ」
笠原は天守閣から景観を眺める。
自尊心からではない、心からの自信に満ちた表情を伴っていた。
「我が城を攻略してみよ、武田晴信……!」
笠原は振り返り、高らかに咆哮する。
「じきに武田が攻めてくる!!戦支度にかかれと伝えよ!!」
厭な風だ。
敵地へと歩む俺は、生暖かな風を感じつつ、天を見上げる。
一匹の蝉が、必死に羽を動かし宙を飛んでいる。
短い命を懸命に生きる様が、何処か人間に似ているようだと、俺は微笑む。
虫にまで情を移すとは、俺もすっかり変わってしまったものだな。
俺は再び視線を前に移し、歩き出した。
其の瞬間、蝉は突然羽を動かすのをやめ、地に落ちる。
其のまま草の上で、石になったかの如く動かなくなった。
後に、武田晴信と笠原清重の戦いは、当に混沌を極めることとなる。
今戦の結末を知る者は、誰一人として居ない。




