第七十四話 主君の居ない、軍議
家臣のみの軍議は、元々は晴信が言い出したことである。
たまには己等で意見を出し合え。というのは建前で、実際は晴信の意見を皆に言い伝える為のものであった。
軍議とは程遠いように思えるが、其処に集まった人数と人物、其処で出た新たな意見を、板垣を通じて報告する事になっている点は、軍議と何ら変わらない。
板垣が語るのは、佐久郡制圧の為に、再び晴信が出陣の命を出すということ。
既に知っている話の羅列に、俺は耳を向けつつ睨む。
目線の先にあるのは、板垣の目前に座る晴幸の姿。
何故か、にやにやと笑みを浮かべている。
(そこに座るな、邪魔だ)
(それ見ろ、やはり晴信は出陣を命じた。
こやつらは気付くのが遅いのじゃ)
誇らしげな笑みが、俺を更に苛立たせる。
今は彼に対して何も出来ない事が、ただ歯痒い。
「此度の戦は、貞清殿も出陣する手筈。
我等への忠誠を示すために、殿が命じた様じゃ」
「しかし、貞清殿は応じてくれるだろうか」
「其の為の御命じなのだろう。
言ってしまえば、奴を《従わざるを得ない》状況へと向かわせる事で、
奴を試しておるのだ」
俺は其の言葉を聞き、安堵する。
晴信は、どうやら貞清を受け入れる為の猶予を与えてくれているみたいだ。
貞清にとっては、少々酷な話ではあるが。
「出陣は一ヶ月後。
先に飯富殿、貞清殿を向かわせ、儂含む他の者は後に向かわせる。
各々の配置、陣の場所についてはまだ決めかねておる故、決まり次第伝えよう」
出陣という言葉を聞く度に、どこか身の引き締まる思いに駆られる。
晴幸は依然笑みを浮かべ、そわそわした様子を見せる。
戦の日を待ち望んでいる様で、俺は静かに苦笑した。
こういう時に限って、参謀としての血が騒ぐのだろう。
それこそ、この乱世に生きる人間の性であると、俺は重々理解していた。
軍議の後、屋敷に残る虎胤と、板垣の間に会話は無い。
晴信は決して、貞清に対する善意など持ちはしないと、
二人だけが知っている。いや、二人しか知らない。
ならば、此度の戦に従軍する理由、そして先陣として戦場へ向かわせる理由とは何なのか。
二人は語らず、考える。彼の真の目的とは何なのかを。
「板垣殿……」
其処に現れる一人の男。板垣は待っていたかという様に、彼の方を向く。
彼は板垣の家臣で、軍議の間、秘密裏にある役目を任せていた。
「結論から申しますと、
軍議の最中、殿は一切部屋に御戻りにはなりませんでした」
「殿の所在は分からなかったのか」
「はい、不甲斐ないことに、私が向かう頃には姿をくらませておりました……」
間違いない。どうやら家臣のみの軍議を行わせたのには、晴信なりの理由があった様だ。
こうして板垣は確信する。
《我等の見えぬ所で、何かが動いている。》
それが何なのか、板垣には分からなかった。
晴信に訊ねることも、何処か躊躇いが生じる。
こうして、誰に語る事も出来ぬまま、武田家は出陣の日を迎える。
「では、行って参ります。父上」
東の空から朝日に照らされる城。何か神秘的なものを感じた貞清は、笑みを浮かべ一礼。
彼は飯富に付き、晴信率いる本隊より一足早く、佐久郡へと向かい始める。
城内では晴信が、自室から外を眺めていた。
その目に映るのは、貞清の見た《それ》と同じ。
生ぬるい風、木々の揺れる音。戦前の静けさを肌で感じる。
「貞清は向かったか」
「は、只今」
晴信は外に目を向けたまま、静かに笑う。
彼の笑い声は、何処か悲しみを帯びていた。
同時に彼は己の残酷さを思い知り、己の作り出した運命を呪う。
許せ。乱世とはそういうものだ。
「其処の者、ちと付いて参れ」
そう言って、晴信は立ち上がる。
垂れる汗と蝉の鳴き声が、夏の訪れを示唆する。
其の日は、雲一つない、晴れの日であった。
翻弄




