第七十三話 終わらぬ戦と、止まぬ雨
《甲斐・原虎胤屋敷》
「殿がそのような事を……」
虎胤は唾を飲む。板垣から委細を語られ、動揺を隠せずにいた。
此の事は内密にして貰いたいと板垣は語る。勿論虎胤に責任を押し付けたいからではない。
そもそも板垣がこれ程までに、此度の件について慎重になっているのは、貞清に知られる事を恐れているからでは無かった。晴信の言動を城下の者はともかく、領内で暮らす者に彼の思惑が知られてしまえば、武田の信用に関わる可能性が出てくる。彼はそれを恐れたのだ。
そうなれば、光らせる目を増やすというのは当然の行為。虎胤も当然、板垣の考えには気付いている。
「殿の言動が、御家に動揺を走らせる事は当然承知しておる。
それでも殿が其方に語ったのは、其方を信じておる証だといえるのではないか」
板垣は何も言わず、縁側から外を眺める。
すっかり春は終わりを迎え、蛙の声が目立ち始める。
今年も梅雨が来る。それが終われば、夏。
ただ、今年の夏も武田家には一波乱ありそうだ。
「虎胤殿、よく聞け」
「うむ、何だ」
板垣は向き直り、鋭い目で彼を睨む。
「佐久郡制圧は、まだ終わってなどおらぬ」
月が替わり、六月
全く、水無月とは誰が言い出したものか。
大雨の降る中、俺が訪れたのは松尾泰山の屋敷。
「随分とお疲れの様子ですなぁ」
泰山は皺だらけの顔で笑う。如何やら俺の表情を見て、案じてくれる様子はないみたいだ。
まあ、この俺の疲れた様子が、今回の話の鍵になる訳だが……
「〈佐久郡での変わった動き〉、にございますか」
「ああ、何でも良い。知って居る事は無いか」
泰山は腕を組み、考え込む。
我ながら変な問いかけだと、内心苦笑する。
そもそもを言えば、先日の晴幸との会話が、此処を訪れた一番のきっかけであった。
三日前
「此度の大井貞清の一件、其方はどう見た」
晴幸から振られる突然の問い。
困惑しながらも、俺は《良かったのではないか》と口にする。
対する晴幸は尖った声で、俺を暢気者だと諫めた。
「儂には此れで終わりとは到底思えん。
貞清を降伏させたとて、佐久郡を制圧したというには程遠い。
何故なら、佐久郡を守るのは貞清のみではないからだ。
近日中には必ず、再びかの地へ攻め入よう」
「何故そう言えるのだ。
確かに佐久郡には志賀城を守備する笠原清繁がおる。
されど、晴信が直ぐに攻め入るか否かは、晴信の決断にかかっておるのだぞ」
「否、晴信は確実に攻める。
考えてみよ。もし其方が笠原と同じ立場であれば、如何思う」
俺は脳裏で想像してみる。もし俺だったら、確実に攻め込んだ敵を警戒するだろう。
「……あ」
その時、俺は気付く。晴幸の言葉の真意に。
仮に同じ領地を治めていた者(大井貞清)が攻め入られたとなれば、笠原の耳には既に、その朗報が届いている筈だ。
もし直ぐに攻め入らねば、笠原は兵や援軍を呼び寄せつつ体制を整えてくる。つまり、時をかければかけるほど、攻め落とすのが難しくなる。
だからこそ、晴信は直ぐにでも出陣の命を出すだろうと、晴幸は予測したのである。
「ようやく気付いたか。
気を引き締めよ。戦はまだ、終わってはおらぬ」
晴信の言葉に、俺は目を細める。
其の日から、晴幸は夜中、資料を漁り始めた。戦場となる地を模索しながら、地形を理解し、相応しい陣形や策を練る。それも三日目ともなれば、夜更かしがそこそこ身体に響き、眠気が俺の表情にも表れ始めていた。そして今に至る。
「うぅむ、伏兵からの報告もないからのぉ。
何も変わったことは無いと思うが……」
「そうか、忝い」
訊きたかったのはそれだけだと、俺は屋敷を後にする。
もしや、まだ本格的には動き出しては居ないのだろうか。
其れとも、伏兵が察知できていないだけか。
少なくとも、早めに動き出すのが上策であることには違いない。
それよりまずは、若殿に心配をかけない様にしなければならないな。
策を練るのも有難いが、己の身体を少しは大事にして貰いたいものだ。
その翌日
俺は板垣の屋敷へと招かれる。
内訳を説明されることなく訪れた屋敷には、板垣は勿論のこと、虎胤、甘利達数十名の重臣達が集っていた。
「これで集まったか」
俺が安座の姿勢を取る直後に発される、板垣の声。
彼が何を語るのか。皆が薄々勘づいているのが目に見える。
当然、俺も分かっている。
汗が俺の額を流れる。俺は拳を握り、くっと顎を引いた。
「此れより軍議を始める。
皆。まずは儂の話を聞いて貰いたい」
《主君の居ない軍議》が今、始まる。
次回、家臣だけの軍議。
武田家中が、大きく揺れ動く。




