第七十話 束の間の、昼下がり
四月
着物を洗い終えた若殿の目に、城が映る。
屋敷への道中、彼女は足を止め、額の汗を拭った。
あそこに晴幸殿がいる。
私の知らない、晴幸殿が。
近いようで、果てしなく遠い。
彼女はただ、見ている事しかできない。
駿河の頃の晴幸殿は、もういない。
人はいつしか、移り変わってゆくもの。
何度も思い、また忘れようとするのに、
それでも考えてしまうのは、己がまだ、今までの彼を望んでいるから。
無茶だということも、十二分に分かっている。
でも何故だろうか、思う度に、何故が胸が締め付けられてしまう。
軽い眩暈と、見えない程遠くへと行ってしまいそうな不安を覚える。
こうして屋敷へと辿り着く若殿の目に映るのは、一人の少女。
少女は若殿の存在に気付くと、笑顔で手を振った。
「若殿様、にございますね」
「はい……あの、あなたは?」
「菊と申します、御挨拶に参りましたの」
彼女の手には、色とりどりの山菜が抱えられていた。
その頃
躑躅ヶ崎館、広間(軍議場)
「是非も無し、次の相手は大井氏じゃ。
何やら大井貞清が、自国で妙な動きを見せておる様だ」
「大井氏と言えば、確か父の大井貞隆を、武田家に捕えておりましたな」
晴信の宣言に続く板垣の言葉に、俺は唾を飲む。
大井氏、噂では聞いたことがある。
当初、大井家、武田家、諏訪家は各々が敵対関係であった。
一五四〇年に長窪城は諏訪頼重のものとなったが、頼重は武田家によって身柄を捕えられ自害。その機に貞隆は長窪城を奪還するが、直ぐに武田側に奪われ、貞隆は武田家によって捕縛される。
何故武田家にはそれが可能だったのか。
理由は一つ。貞隆が支城奪還に浮かれている間に、晴信が手を打っていたからだ。
晴信は飯富等に命じ、大井家家臣である相木昌朝や芦田信守を裏で調略。彼らを味方に引き入れることで、武田との内通を可能にした。
故に長窪城は開城。あとは言わずとも分かるだろう。
それが、頼重との一件の裏側。そして今、貞隆の息子である大井貞清による我等への〈抵抗〉が、浮き彫りになっているのである。
「しかし解せませぬ。貞清の動きが我等に対する抵抗だとしても、何故今になってのことなのか……」
「「城だけでなく、貞隆殿をも奪い返すつもりなのでは?」」
口を開いたのは、俺と真田幸綱。
途端に互いに横目で見合わせる。
幸綱の表情からして、思うことは同じ様だ。
「ふっ、言わずともそうであろうよ。
大井貞隆含む牢人の護衛は此れまで通り任せる。各々、いつでも出陣できる支度をせよ」
「は!」
次の相手は、大井貞清。俺にとっては誰であろうと関係ない。
参謀としての俺の役目は、彼含む敵の情勢を調べ、策を講じる事。
大丈夫だ、いける。此度の戦には幸綱がいる。
奴の存在は重要だ。決して手放してなるものか。
「御帰りなさいませ」
屋敷に戻る俺を出迎える彼女との、いつもの光景。
しかし、一つだけ異なる点がある。
「む、湯呑が二つ……若殿、誰か来ていたのか?」
「ええ、原様の娘様にございます」
どうやら新たに此処へ来た若殿に向け、挨拶に来たようだな。
俺はそうかと呟き、若殿の傍に座る。
「あの、晴幸殿」
若殿は俺に声を掛けるも、頬を赤らめ、その先を語らない。
遂には、何でもないと口にし、顔を背けた。
俺は彼女の様子がおかしい事に気付いていたが、あえて触れることは無かった。
「若殿、また近々戦がある」
「戦……にございますか」
俺は不安顔の若殿に向け、微笑む。
「案ずるな、儂は死なぬ。何を言おう、儂には幸綱殿がおる」
若殿は首をかしげていたが、俺は構わず彼女の頬に手を当てた。
「やはり其方には、寂しい思いをさせてしまうな」
彼女は俺を抱きしめる。彼女の真意を察した俺は、優しく頭を撫でた。
二人はそのまま、見つめ合う。
今だけなら、きっと赦されるはずだ。
陽も沈まぬ夕暮れに、俺と若殿はあの地へと向かう。
川に沿う様に立つ、桜並木。
美しい花を咲かせ、まるで俺達が来るのを待っていたかのよう。
花弁の散る様はとても趣深く、俺さえ美しいと思ってしまうほどである。
言葉を失う。
俺の目に映る若殿の横顔。
言葉を失った二人の間に吹き抜けるのは、暖かな風。
夕日に照らされた彼女を、俺と晴幸は眺める。
もうすぐ、今日が終わる。
他人にとっては何気なき一日。しかし俺達にとって思い出となったその日は、穏やかに過ぎてゆく。




