第六十九話 歪み、狂い
申し訳ありません、晴幸の設定を一部変更するにあたり、以前の話を多少改稿させてもらいます。
朝。心地よい春風と日差しに、俺は目を覚ます。
手探りで眼帯の在処を探り、起き上がる。
彼の右目に映るのは、壁を背に座り込む男。
(晴幸か……)
いや、もう一人いた。真田幸綱が、刀を立てながら眠っている。
俺は晴幸の記憶に残る昨晩の出来事を思い返し、溜め息を吐く。
若殿はもう起きているだろうか。
今日は、二人分の朝飯を作ってもらおう。そう思いながら、俺は居間へと向かう。
朝食後、俺と幸綱は屋敷を出る。
どうやら幸綱は、俺を城の北側のとある場所へ案内したいらしい。
「いや、済まなかったな。飯まで作って貰って。
それにしても若殿様は、誠に綺麗な御人であるな」
俺は幸綱の言葉を耳にしつつ、晴幸を睨む。
当の晴幸は俺と目を合わせ、にかっと満面の笑みを浮かべる。
(やはり納得がいかん......俺の知らぬ間に、どうして泊りを許したんだ)
(其方も理解しておる筈じゃ、この男を敵に回すとまずい。
ならば今のうちに手を打っておくというものよ)
全ては、味方へと引き入れる為の布石。というのは建前で、実際のところは彼に信頼感を抱き始めているからだろう。
まったく、此の男は器用なのか不器用なのか、未だに分からない。
「何処に向かっておるのだ」
俺の言葉に、幸綱は答えない。
歩みを続ける身体に、付いてゆく身体。
二つの影が、徐々に伸びてゆくのを感じる。
「此処じゃ」
城の北側にそびえ立つ山を登り、見えてきた光景。
それには俺も思わずため息を吐いてしまう。
其処は、甲斐が一望できる開けた土地。
扇状地に沿う様に建つ城からの景観も比較的良いが、それよりも格段に良い景色が広がる。
「この時代へ来る以前の儂は、一度だけ此処を訪れたことがあった。
あの頃と変わらぬ、良い眺めだ」
幸綱は沈黙する。
俺は彼の背後に近づく。とても話しかけられる雰囲気では無かった。
そういえば甲斐に来てからというもの、この地形には随分と驚かされたものだ。
北側の山々だけでなく、西と東にも峰がある地形。
敵が攻めるとしたら南側しかない、防御に適した平城。
いわば、〈碁詰〉に近い感覚である。
此れこそが、武田家が城一つで存続できた理由である。
「晴幸よ、其方もそこに居るのだろう」
俺は目を丸くし、晴幸は口を噤む。
幸綱には、晴幸の姿は見えていない。
其れでも確信を持って言えるのは、彼の持つ術の御陰なのだろう。
「此処へ飛ばされる以前、儂は教師をしておった。故に多少の知識はある。
だからこそ、其方等に伝えておかねばならぬ事があるのじゃ」
そう言って彼は振り向き、俺の方を見る。
「今が何年か分かるか」
「天文十五年、だが?」
「ああ、天文十五年。つまり西暦で言えば一五四六年。
武田勝頼、この年に奴は生まれる筈だった」
「……へ?」
俺と晴幸は、耳を疑った。
同時に頭をよぎる、妙な違和感。
「其方が高遠頼継と、宮川において対峙したのはいつのことだ」
再び問う彼の表情は、真剣そのものである。
俺は微かな声で、去年の秋だと言った。
「宮川の戦いは、史実通りならば一五四二年に起こる筈だった戦だ。
それに、首謀者である高遠頼継が、この戦で命を落としたという記述はない」
俺は言葉を失う。視界が回り始める。
晴信とて眉に皺を寄せ、同じことを思っている。
術を使ってか否か、幸綱は俺達の感情を察し、問いを止めた。
「此れで気付いただろう。今、歴史は大きく狂い始めている。
其れは恐らく、儂と其方がこの時代へやって来た故じゃ」
俺が無知なせいで、何も気づけなかった。
今現実は、史実と違う方向へと向かって居る。
「儂の……せい......?」
史実では、宮川の戦いにおいて、晴幸は出陣していない。理由は言わずもがなである。
宮川の戦いが起こったのは一五四二年、いわば晴幸が甲斐へ来る一年前。
つまり、晴幸は出陣していなかったのではない。元々そこにいなかったのだ。
武田勝頼が早期に生まれたのも、俺が御料人との結婚を晴信に勧めたから。
高遠の死に大きく関わっているのは、紛れもなく俺。
そして、宮川の戦いが史実から三年もずれていた原因は、恐らく俺や幸綱の存在。
俺達がこの時代へ転生した時から、歴史は歪みを生み出し始めていたのかもしれない。
死を視る術の通りにしていれば、きっとこんな事にはならなかった。
少なくとも史実と異なる出来事全てに、俺が大きく関わっているのは事実だ。
「だからこそ、儂は其方と手を組みたいと考えた。
これから先、儂が出来る範囲の知識を、其方に伝えるつもりじゃ。
なに、史実というものは曖昧なもの。
案外、これが正しい歴史なのかもしれぬしな」
幸綱はこの状況に危機感を持ちながらも、俺を励まそうとする。
それでも、どうにもならなくなった時はどうするのか。
俺の問いに、幸綱は微笑する。
「その時は、新たな歴史を我等で作ろうではないか。
その際に我等に与えられるであろう使命、其れは武田晴信を天下統一に導くことじゃ」
俺はようやく気付いた。
此の男は、狂い始めた史実を目の当たりにしながら、
歪みを生み出した出来事に武田が大きく関わっていると踏み、この甲斐へやって来たのだ。
間違いを犯した俺を、救う為に。
不意に頬が緩む。
俺と晴幸、二人の心の壁が、少しずつ壊れてゆくのを感じた。
この出会いが、俺の運命を少しずつ狂わせてゆく。
しかし、それはまだ何年も先の話。




