第六話 出立、常套句
其の日の夜、俺は庵原殿に其の旨を伝える。
突然の事に申し訳ないと、前置きを添えて。
「ははは、よく決心なさったものよ」
何を言われるだろうかと内心びくついていたものだが、庵原殿は寧ろ喜んでいた。
其の日は挨拶のみで帰るつもりだったが、
折角の機会だと言って譲らぬ庵原殿の気迫に押され、
夜が更けるまで散々言葉を交わし合った。
そう言えば、あんな風に語り合ったのも、久方振りであったな。
その御陰か、昨晩の荷造りも思いのほか捗ったものだ。
「御世話になりました」
「うむ、達者でな」
夜明けが迫る空の下。
俺達は玄関で淡白な挨拶を交わす。
《御世話になった》
偉そうな言葉だ。
俺はこの御方の為に、何をして来たというのか。
〈庵原殿の御陰にございます、
貴方様が私を慕って下さらねば、此処で決意する事も無かったでしょう〉
あの夜、ほろ酔い気分でそう口にした。
庵原殿だけではない。若殿もそうだ。
俺はただ受け取っていただけで、何も返しちゃいない。
「おぉそうじゃ、忘れておったわ。
其方に渡す物が有るのだ」
そう言って庵原殿の懐から取り出された、小さな袋。
「これは」
「昨晩、拵えた御守りじゃ。
黙って貰っておけ、其方がどうしようもなく
困り果てた時に、開いてみよ」
俺は其れを受け取り、懐に忍ばせる。
「達者でな、身体には気を付けるのだぞ」
そう言って、庵原殿は笑みを浮かべた。
如何して庵原殿は、牢人相手にこれ程までに優しいのだろうか。
どう感謝してもし尽くせないという擬かしさだけが、俺の中に残る。
屋敷への帰り道。
宵の明星が一際輝く、そんな暁の空に朝日が昇り始める。
背を向けていた俺は振り返り、光り輝く球体に手をかざしてみる。
変わらない。今も、九年前も、四百年後も。
同じ様に輝く太陽が、俺を照らす。
それは心なしか、新たな門出を祝ってくれているかのよう。
俺が駿河を発つのは、その二日後のことだ。
早朝、俺は若殿の宿屋を訪れる。
日の昇らぬ内は、流石に起きてはいないだろう。
「行って来る」
俺は宿屋に向けて、深々と礼をした。
最後にもう一度、声を掛けてやれば良かった。だが、今更悔いたとて遅い事は分かっている。
俺はうすら笑みを浮かべ、歩き出そうと方向を変えた。
「晴幸様」
背後からの声、俺は振り返る。
其処には険しい表情を浮かべた若殿が立っていた。
「……起きていたのか」
「去る時さえ、何も仰ってはくれないのですね」
俺はあまりの申し訳なさに頭を掻く。
同時に羞恥心までもが俺を襲い始めた。
「やはり初めから終わりまで、不器用な御方」
若殿はため息を吐き、一歩、俺の許へ歩み寄る。
「私から申せる事は、一つのみにございます。
どうか御達者で。くれぐれも、御身体には御気をつけ下さりませ」
その言葉に俺は気付く。
あの時の庵原殿と同じ台詞。
俺は頬を緩ませる。
その言葉を脳内で反芻しながら、何度も頷く。
「......あぁ、有難う。行って来る。
そして必ずまた、其方に会いに行く」
思いがけない言葉だったのか、目を丸くした若殿は、直ぐに微笑み頷く。
「はい、何時までも、
お待ち致しております」
俺に向けて贈られた、若殿の言葉。
俺は悟る。やはりこれも、立派な常套句なのだと。
しかし、それ以上の言葉は必要ない、言わずとも分かる。
例え常套句だとしても、
心を通して伝わるものがあることを。
最後まで、若殿は俺に、
大切なことを教えてくれていたのだな。
こうして宿場を離れ、四半刻ほど北に歩いた場所に立つ、大きな杉の木へと向かう。
「此方にござる」
其の下に立っていたのは、板垣と三人の男。
俺は彼等を視界に捉える。
彼等は武田の使者に違いない。術で見た彼等の潜在値は、板垣と何ら変わりなかった。
三人の平均値
セントウ 一三七一
セイジ 八〇八
ザイリョク 四五二
チノウ 七九四
知能は、政治と比例する傾向がある。
知能値が高い程、知恵が働く奴が多い。
板垣の知能は一六三二、どうりで小賢しい訳だ。
「晴幸殿、何を呆けておる。出立致すぞ」
板垣の声に、現実に引き戻される。
俺は急いで荷を持ち、既に歩き出していた彼等の後を追うのだった。
庵原殿の名は庵原。
しかし若殿は「若」という名ではなく、「若殿」自体が本名。つまり、「若殿殿」となるわけです。