第六十五話 流離いの、男
朝になると聞こえる、雀のさえずり。
動物達が長き冬籠りから目覚める季節。
三月某日、俺はある男の許を訪れる。
「山本様、如何為されましたか?」
松尾泰山、俺の統べる土地のみならず、近辺でも名の知れた有名な名主。また金貸しとしての側面を持つ男である。
俺が甲斐へ来てからというもの、検地や金貸しなどの業務において、度々世話になってきた男。
俺は泰山に訊ねる。この辺りで美しい桜が見れる場所は何処かと。
「此処より西に四半刻程向かう先に、川が在ります。
川に沿う木々が毎年咲かせる桜は、それはそれは見事だとか」
彼の言葉にひどく驚いてしまった。それほど近い場所にあるとは知らなかった。
同時に、再己の無知さというものを再び実感する。
帰り道、城下で遊ぶ子供の声。
子供たちは俺の姿を見ると、恐れ何処かへ逃げてゆく。
俺はそんな彼らの後姿を眺め、微笑む。
屋敷に辿り着いた俺は、直ぐ様弥兵衛を呼び出した。
「弥兵衛、ちと山菜を買うてきてはくれぬか」
幾らか金を渡された弥兵衛は直ぐに桶を持ち、駆け出す。
少し、嬉しそうだったな。
晴幸の表情に、弥兵衛も思わず頬を緩ませた。
暖かな風と、雲一つない空から差す日差しが妙に心地良い。つい先日、春一番が吹いた日からというもの、こう暖かい日が続いている。
皆は思う。遂にこの地に、春がやって来たのだと。
店の前で、弥兵衛は足を止める。
如何やら、先客がいるようだった。
風変わりな後姿が三つ。その中の一人が、店主と話している。
「城は何方の方角じゃ」
「あ、あちらの方だが」
男は礼をし、指示された方角へと歩む。
低い声に似つかぬ、鼻歌交じりの軽い足取り。弥兵衛は店主に訊ねた。
「儂にもよう分からん。どこぞの国から逃げて来た流浪者らしいが、
何やら殿様の許に仕えるとか何とか……」
弥兵衛は再び男達の方を向くが、既に後ろ姿は、遥か遠くに見えていた。
「妙な男?」
「は、如何やら男は、己を〈流離いの身〉だと語っていたそうです」
弥兵衛の話に、城へと歩を進める俺は、腕を組みつつ考える。
確かに変な話だ。どうして他国から流れてきた武士(落武者って言うんだよな?)が、わざわざ名の知れていない晴信の許へやって来たのか。
いや、よく考えれば俺が此処を訪れたのも同じ様な状況だった。
どうやら口を挟める事ではなかったみたいだと、俺は苦笑する。
しかし、この時期に武田に仕えんとする男、一体どんな人物なのだろう。想像しながら俺は城への道を一歩一歩、踏みしめるのであった。
「面を上げよ」
男は拳を地に付けたままゆっくりと頭を挙げ、自信満々といえる表情を晴信に向ける。
晴信は脇息に腕を置き、睨む。
対し男は臆する様子を見せる事無く、笑む。
「御初に御目にかかります。拙者、真田源太左衛門幸綱と申しまする。
それで、貴方様がかの武田晴信殿にございますか」
「おいっ、何じゃその口の利き方は……!」
「良い」
晴信はそう口にし、外を眺める。
春の陽気に、不意に眠気が襲う。
小さな欠伸の後、晴信は目を細めた。
「其方、よほど己に自信がある様だな」
「は、剣術には多少心得がございます」
晴信は立ち上がる。そのまま縁側へと歩を進め、振り返る。
陽に照らされた彼の姿は、まさに神々しさを連想させるものであった。
「ならば幸綱、我が家臣と手合わせ致せ。
もし勝てば、其方を召し抱えようではないか」
俺(晴幸)と幸綱、二人の出会いが、大きな波紋を呼ぶ。
次回、勝負。




