番外編EX3 鬼とよばれた、男
第二章完結記念 閑話集第2弾!
今回は、あの男のお話。
原虎胤。彼は言わずと知れた、武田軍の中核を担う人物である。
彼と父・原友胤が武田信直(後の武田信虎)に仕官した頃、甲斐は郡内の小山田氏と和睦し平穏であったが、信直は未だ、甲斐統一に至ってはいなかった。
信直は今井氏親に内通し、一五一五年に甲斐・上野椿城を攻撃。それが原虎胤の初陣とされている。
友胤の亡き後も虎胤は活躍し、武田での地位を確かなものとした。
一五四一年に武田晴信が武田家督を継いでからも、虎胤は各戦線で活躍。
同年には、四十五歳の虎胤は足軽大将に昇進。
原虎胤の武勇は諸国でも恐れられており、彼の名を聞くだけで逃亡する者もいた。
特に城攻めに長けていたとされ、原虎胤の落とした城は、修理の必要がないと言われる程であった。
彼はいつしか諸国の兵から《鬼美濃》と称され、恐れられる存在となる。
そんな原虎胤という男は、至極優しい男であった。
ある時、戦場で倒れている敵将を見た虎胤は、その男を抱え、敵陣にまで足を運んだという。
当然、敵は彼に向けて刃を向けた訳だが、虎胤は動じることなく、その男を引き渡す。
「再び戦場でお目にかかろう」
そう言い残し、颯爽と敵陣を去る。
以上の話は、一種の逸話であるとも言われている。しかし鬼と呼ばれていた彼が、情に厚い武将であった事には違いない。
思えば、甲斐へ来て三十年が経とうとしている。
虎胤は時々、日々を噛み締めながら、己の人生を振り返る。
其れが良くも悪しくも、良いものだったと思える日を、彼は待ちわびていた。
「父上、其れは?」
虎胤の一人娘である菊の声に反応し、彼は微笑む。
「其方の叔父上の形見じゃ」
手に握られていたのは、一本の赤い槍。
彼はそれを布で丁寧に拭き取り、武庫の一角に立て掛ける。
「……叔父上は、如何様な御方だったのですか?」
何気無い菊の問いに、虎胤は天を見上げ、腕を組む。
そう聞かれるのも無理はない。菊が生まれたのは友胤の死後だ。彼の生前を知って居る筈が無い。
しかし、友胤の死後数十年が経った今、彼自身にも、原友胤の記憶は薄らとしかなかった。
今や、形だけの形見となって其処に在る槍は、武庫の中で赤く鈍く光る。
虎胤は其の槍を目にする度に思う。
敵将を敵陣まで運んだことも、父親の形見に手入れを施すのも。全ての行いは、単なる偽善だったか?
そう思う度に、己の愚かさを実感する。
答えられない自分に、強く腹が立つ。
ただ父は、己の中で強く生きている。
それだけは、決して揺らぐことは無かった。
菊、其方の目に、儂はどう映っているだろうか。
儂も、父の様に強く生きられているだろうか。
あれから一年が経つ。
戦で多大な傷を負い、戦線を離脱した虎胤に届く、一通の手紙。
一字一句、間違えることなく読み聞かせる菊。
その封には、宛名が無かった。
驚くほどに精巧な文の作りに、よほどの教養がある人間のものだと悟る。
一寸の抜け目もない末尾の文に、遂に彼は訊ねる。
この文は、一体誰が書いたものかと。
「山本晴幸様にございます。
其の方は先の戦での見事な采配により、
頼重様の身を炙り出したのです」
「山本晴幸というのか……
是非一度、会うてみたいものだ」
虎胤は目を細める。
ここ数日、よく耳にする名である。
何も殿に徴用されておるのだとか。
もしや、奴には自分に見えていない世界が、その男には見えているのではないか。
山本晴幸、一体どんな男なのだろう。
よし、若し奴が帰ってきた暁には、一度会いに行ってやろう。
奴が病を患ったことにすれば、誰も彼の許を訪れない筈だ。
数日後、虎胤は屋敷へと向かった。
其処に伏せて居るのは、一人の男。
予想通り、彼の屋敷には誰も居なかった。
「やぁ」
虎胤の登場に男は驚きを見せつつ、依然病を患った体を貫く。
「済まぬ……少し風邪気味で、ごほっ、うつしては悪い。
悪いが、またにしてくれ、ごほっ」
虎胤は思わず可笑しくなり、微笑する。
「偽りを申すな、山本晴幸殿」
其の言葉に、男は布団から顔を出した。
肌は色黒、髭をあちこちに生やし、左目に眼帯を付けている。
おかしな男だ。男を見下ろしながら、虎胤は思う。
「……原殿に、ございますか?」
同時に、興味関心が彼の中に強く芽生え始める。
此の男が何故殿に徴用されているのか。何が殿の興味を惹きつけたのか。益々分からなくなった。
「いかにも」
人間とは不思議なもので、己の理性が働かなくなる瞬間がある。
其れはつまり、己の中の欲が抑えられなくなることを意味する。
此処を訪れたのも、その一種なのだと、彼は己に言い聞かせる。
此の男を知りたい、ただその一心で、彼は男の枕元に座った。
そして幾らか何気ない話をした後に、彼が最も聞きたかった問いを、晴幸にぶつける。
「そう言えば晴幸殿、
其方に一つ訊ねたいことが有ったのだ」
虎胤は笑みを浮かべた。
「我が娘と、何をしていたのだ?」
史実では、原虎胤は誰よりも情に厚い男であった。
傍から見れば彼の行為は、唯の偽善だったのかもしれない。
ただその様は、鬼と呼ばれた男の、〈鬼らしからぬもの〉であったと、後世の人々はそう言い伝えている。
完
参照・第二十六話、第二十八話
お待たせいたしました。
次回から本編再開します。




