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第六十一話 本望と、偽善

 人には必ず、良心と邪心の二面が存在する。

 どれほど完成された人間にもよこしまな心が潜み、どれほど残酷な人間にも善悪を判断する心を持っている。

 〈人生の内で、一度も間違ったことをしたことがない〉と言える人間は居ない。



 夜が明け、早朝。

 

 今にも消えそうな蝋燭の火が、俺の瞳に灯る。

 目を逸らした俺は、歩き出す。

 案内されたその場所は、薄暗い地下牢。昼か夜かも分からない、洞窟の奥深くへ潜ったような感覚。

 俺はある男の檻の前に立った。




 「矢島満清殿、にござるな」

 顔を上げる男の瞳は、漆黒に染まっていた。

 それが、俺が彼と出会い得た、第一印象。

 


 矢島満清


 セントウ  一八九五

 セイジ   一二〇七

 ザイリョク 九九三



 俺は檻の前に座り、懐から瓢箪を取り出す。

 「酒じゃ、少し長く、語り合う事になるだろうからな」

 「……良いのか。

  酒を持ち出したと知られれば、如何なるか分かったものではないだろう」

 「覚悟などとうに出来ておる」


 矢島は何も言わず、御猪口を受け取る。

 俺は矢島に酒を注ぐ。俺が手を付けずにとった余り物。

 彼の姿を見る限りは、食事に飢えている様子はない。


 俺はふと、頼重とのやり取りが脳裏に映し出される。

 そうだ、あの時とどこか似ている。

 頼重に対し、酒を持ち出すことはしなかったが。

 

 「じきに其方にも、殿から磔の命が出されるであろう」

 俺の言葉に、矢島は恐れる様子を見せない。

 ただ此処に至るまでの己の行為を顧みるように嗤い、言うのである。

 そうであろうな、と。



 「儂は、其方を生かしたい。

  儂が直々に説けば、生かすことも出来るやもしれぬ」


 俺が彼に対し与える、救済措置。

 それでも死ぬつもりなのかと、俺は訊ねた。

 生きたいと思うのは、誰もが持つ普通の感情。最底辺の欲求。

 なら、死のうとする者を救いたいと思うのも、また普通の感情である。

 




 しかし

 それは俺にとって表向きの感情でしかない。




 矢島が武田に重要な戦力となり得ることは否定しない。

 ただ本当は、此れ以上、誰かが死ぬ様を見たくはなかった。

 俺が与えたのは、〈矢島が死なない〉という、俺に対する救済措置でもある。


 此度の件で、矢島は高遠に関して責任を感じている。

 ならば、其処に漬け込む発言を彼にぶつければ、矢島は揺さぶられるだろう。

 その時、どの様な選択に行き着くかは、無論彼次第である。俺は其れを否定するつもりはない。

 完全な悪人の発想だ。しかし、奴を生かすならそれしかない。




 「儂を生かそうとするなら、其方は晴信殿に対し、儂が武田への仕官を望んでいる旨を説くつもりであろう。

  しかし、儂は武田に仕える気はない」

 「いや、其方は高遠殿に対し、何か悔いを感じているのではないか?

  儂にはそう見えてしまう。ならば、高遠殿の分まで生きるべきじゃ。きっと高遠殿はそれを望んでおる」




 これでどうだ。

 その時、矢島の表情を見た俺は、固まる。

 矢島は眉を顰め、静かな怒りを俺に向けていた。






 「やはり偽善者は其方だったか、武田の軍師よ」







 俺は言葉を失う。

 〈高遠の事を、其方はどれだけ知っているというのだ。〉

 そう目で訴える彼に、俺は己の思考の浅さを思い知る。







 高遠は何も望んでなどいない。


 寧ろ偽りの優しさで生きる事の方が罪だと、矢島は言う。

 俺は気付く。自ら望むことなら、死すらも本望。

 なるようになる、本心を貫く、高遠の信念は其処に在った。

 彼らの人生は、そうして出来ていたのだと。

 



 「済まなかった」




 俺は其れ以上、何も言うことは出来なかった。

 晴信とて同じ。俺が何を言っても、きっと自身の信念を貫くだろう。


 俺は思い上がっていた。偽善者、彼の言う通りである。

 どうやら俺だけが、器の小さい人間だった様だ

 俺の言動の一つ一つが、ただ恥ずかしく思えた。




 数日後、晴信の前で矢島と有賀達の処刑が行われる。

 俺もその場に参列する。此れ以上、誰かの死に目を背けないと決めたからだ。

 死ぬ間際に浮かべた彼らの薄ら笑みを、俺は忘れる事が出来なかった。


 其れは当に、乱世を実直に生き抜いた者の、会心の表情に見えた。



次回、第2章完結。

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