第五十九話 懺悔と、再会
【躑躅ヶ崎館】
障子が開く。其処に在るのは、諏訪御料人の姿。
驚きの様子と共に、彼女は微笑む。
「殿」
晴信は歩み寄り、彼女を強く抱擁する。
驚きつつ、彼女もまた、晴信を抱く。
「勝った、勝ったぞ」
「おめでとうございます」
晴信は頬を緩ませている。
しかし、彼女は晴信の声に違和感を覚えた。
「......如何なさいましたか?殿」
柿の実を付けた木が風に揺れる。
一つの実がその木から落ちる時、突如として晴信の表情が変わった。
「儂は、愚かな男か」
彼女は言葉を失う。失望に近似した声と、悲し気な眼差しを浮かべる晴信を、其の目に映した。
「もしや、私が諏訪の娘である事を、案じておられるのですか?」
晴信は答えない。
震える身体を抑えようとするかの如く、彼女は言葉を探す。
「……私はもう武田の人間です。何も案ずる必要はありません。
それに、何があったのかは御聞きしませんが、此度の戦は、殿が私共を思って下さっての事だと信じて居ります」
晴信の中に、彼女の言葉が刺さる。
優しすぎる。
そんな言葉を、聞きたい訳では無かった。
「御料人」
晴信はそう言いかけ、口を噤む。
此れ以上の言葉に、意味は無いと悟った故である。
彼女が諏訪の人間であること。
それも、今回の心残りの一つ。
しかし、彼の発した言葉には、もう一つの意味をも含んでいたのである。
あの時、板垣の言葉を素直に聞いておくべきだった。
己の為に、命を賭して戦う者。
その存在を、いつからか軽視していた自分に気付く。
追い込まれた状況下で、誇りだけを胸に逃げる事を選ばなかった。
それこそ主君としての役割を、全うする以前の問題である。
此度の戦で、晴信は思い知る。
誇りなど、唯の虚構に過ぎないのだと。
翌日、甲斐に戻るや否や、城のとある一室に呼ばれた俺は、晴信と対面する。
「此度、其方は勝手に我が陣を離れたな」
「申し訳ございませぬ……」
晴信は、俺があの間に何をしていたのか、あえて問おうとはしなかった。
「いや、良い。
儂も同じじゃ。其方が儂を謀ったと同じように、儂も皆を裏切ろうとした」
その理由は、一つ。晴信の口から発された一言が全てを物語っていた。
「儂は高遠の刺客が現れたにも関わらず、直ぐに陣を動かなかった。
他人の窮地を横目に、儂の傲慢を貫いた。
故に、儂自身だけでなく、千代宮丸までも、危険な目にあわせてしまった。
其方との金打の印を、忘れた訳ではない。
しかし、我が命こそ無駄にしかけた此度の儂の働きは、其方と同様、
咎められても仕方のうござる」
俺は目を細める。
彼は自らを秤に乗せ、命を賭した。
しかし、先の戦で受けた傷によって、人間の恐ろしさというものをつくづく思い知ったのだという。
やはり若者の自信というのは、いつの時代でも危ない方向へと導きがちである。
「昨晩、儂を討とうと謀った者らと、牢で語ったのじゃ」
〈儂は、高遠殿の友であった。〉
俯き加減に呟く矢島や有賀の表情は、悲しみに暮れている様子だったと、晴信は言う。
そんな彼らの真意こそ、俺の術を使えば直ぐにでも分かる事なのだろうが。
「画策したのは高遠じゃ。しかし名乗りを上げたのは、奴の友と称する矢島満清。
矢島は高遠の為を思って、御自ら名乗り出たのであろう」
しかし、結果的に高遠は命を落としてしまった。
それが、己が誇りの為に自ら戦いを挑んだ男の、行き着く果て。
「殿が受けた、その頬の傷。
高遠殿も命を賭して、殿に刃を向けていた筈にございます。
ただ高遠殿と殿では、抱えておるものが大いに違いまする。
此度、其れが分かっただけでも、収穫と言えましょうぞ」
晴信は俺の方を向き、顎を引く。
其の言葉が聞きたかったのだと、晴信は思う。
彼の真意は自己満足とは違う、もっと根本的な何か。
その根底にあるのは、《知る》という行為。
晴信はまだ二十二。まだ未熟な若者は、此れからも多くの事をその目で見て、知る事だろう。
俺は己の中に秘めていた疑問を訊ねる。
「牢に入れた者達に対する救援の措置は」
「無い、捉えた者共々、皆殺す」
あぁ、やはりそうだ。
此の男は何処までも、澄んだ目をしている。
傲慢さを知りつつも、あくまで己の信念を貫き通し続けるつもりか。
それで良い、それこそ武田晴信という男に相応しいと、俺は微笑む。
「晴幸、此度の其方の行い、不届き千万。
しかし、よくぞ高遠を誘き出した。
其方を知行四百貫とし、褒美を授けよう」
知行四百貫。現代で言う六千万円の価値。
俺は深々と礼をする。
現代で生きていた頃には、一生掛けても到底得ることのできない大金である。
晴信は頭を下げる俺に歩み寄る。
「其方への褒美じゃ。しかと見よ」
その時、広間の障子が開く。
其処に現れた人物が目に映った瞬間、俺は硬直する。
「晴幸殿!」
「どう、して」
其処に居たのは、
駿河に残してきたはずの、若殿だった。
再会。第二章完結まで、あと三話




