第五十七話 望み、賭け
「な……!?」
晴信の持つ短刀が、千代宮丸の首元で光る。
有賀はその様を見て躊躇い、目を細める。
(あくまで抜け目は無いと申すか……)
中々の周到さに、晴信の真意が掴めない。一体どこまでが想定内だというのか。
この男には、何手先が見えているというのか。
「有賀!!それは我等を惑わす為のはったりじゃ!!
構わずその赤子を奪え!!」
矢島の声によって一時は我に返るが、途端に晴信の言葉が、有賀の耳に刺さる。
「近づけば、千代宮丸の命は無いと思え」
汗が、有賀の手に滲む。
何が己にとって最善の行為なのかを、脳内で幾度に渡り試行する。
しかし、先の晴信の行為によって、彼の冷静さは徐々に失われつつあった。
考える程、疑心暗鬼に蝕まれてゆくのを感じる。
(くそ……っ)
矢島は彼の様子に焦りを覚える。
恐らく有賀は、己の行為の善悪を疑う程に混乱している。ならば儂が救援に向かう他ない。
しかし、この状況下で少しでも隙を見せれば、抑えつけている板垣に一手を刺される事も分かっていた。
「有賀ぁっ!!」
矢島の叫びに有賀は目を見開き、刀を強く握る。
そうだ、考えてみれば、我々は何の為に武田に勝負を挑んだのか。
決まっている、諏訪が占有していた筈の領地を取り戻す為だ。
有賀の頬に、数滴の汗が垂れる。
そうだ、もはや悩む暇など皆無。
彼は震える両手で、刀を振り上げる。
其処には動じず、鋭い眼差しを浮かべる晴信の姿。
狙うは、晴信の首元だと思わせ、
刃を持つ晴信の腕を狙い、使い物にならなくなった腕から赤子を奪えば良い。
躊躇うな、ひと思いにやれ――
有賀の腕が、今にも晴信の方へ振り下ろされようとした時である。
「止めよ!!」
突然、陣中に轟く咆哮。其の声に皆の動きが止まる。
現れたのは、此処に居る筈のない、槍を持つ一人の男。
「高……遠……?」
「もう良い、良いのだ。
こやつらは、我々が向えるべき相手では無かった」
高遠は不意に刀を下ろす有賀の肩に一度手を置き、微笑する。
そのまま晴信の手前まで歩み寄り、槍を置き座り込んだ。
「晴信殿、儂の負けじゃ」
静寂が陣を包む。
板垣達は唖然とした。こうも急な出来事に、戸惑いを隠せない者多数。
それは矢島や有賀にとっても、想定外の言葉……
「……などと申すと思うたかっっ!!」
高遠は腰刀を抜く。彼の振るう刃は、晴信に向け一直線に軌道を描いた。
「!!」
次の瞬間、陣中に鈍い音が響いた。
晴信の持つ扇が二つに割け、頬から鮮血が垂れる。
高遠の刃は、晴信の顔の直ぐ傍へ位置していた。
高遠は唯、恐ろしい形相で晴信を見つめる。
「何時であろうと死ぬ覚悟じゃ。儂は最後まで抗うぞ、晴信」
その直後、武田兵が晴信を取り囲む。
「殿を御守りするのじゃ!!」
高遠は地に置いた槍を持ち、低い体勢で構える。
「……千代宮丸を抱え、甲斐へ戻れ」
囲いの中で晴信の指示を受けた男は、秘密裏に千代宮丸を避難させる。
(執念深き男じゃ)
晴信は脇息に肘を付き、睨みを利かせながら、兵の隙間から高遠の姿を見る。
「直に潮時かの」
呟きと共に、遂に立ち上がった晴信は、元来た道を引き返し始めるのである。
「殿、最後まで儂の戦いぶり
しかと見届けてくだされ」
力強く呟き、高遠は豪快に槍を振るう。
全ての者を寄せ付けず、襲い来る者全てをなぎ倒すかの勢いを見せる。
その槍さばき、当に鬼神の様だと、後の人々は口々にそう話したという。
実を言えば、元から晴信は千代宮丸を殺すつもりはなかった。いや、殺すことが出来なかったという方が、正しいのかもしれない。その理由は二つある。
一方は、晴信が推戴によって仕えた者達のクーデターにまで、手を負いたくはないと思っていたこと。もう一方は、〈諏訪頼重〉という男を最も理解して居るのは自分だと理解して居たこと。
恐らく高遠も、それらの理由を踏まえ、千代宮丸殺害の疑いを自らの中で晴らし、わざと高圧的な態度を装うことで、千代宮丸を安全な場所へ避難せざるを得ない状況へと導いたのである。
あの時、彼の事を〈誠の愚か者だ〉と、誰もが思った事だろう。
しかし、此れ程までに苦しみ、足掻き、此れ程までに優しき男は他に類を見ない。
遠くで、あの男の雄叫びが聞こえる。
晴信は奇襲をかけられたにも関わらず、彼に対して畏敬の念を示す。
(儂を追い詰めた其方の傷を、一生忘れることは無いだろう。)
晴信は頬を触りながら、そう心の中で呟いた。
陣を離れる俺は、草を掻き分け、馬を走らせる。
聞こえるのは、風を切る音だけ。
不意に広がる光景に、俺は立ち止まった。
其処に広がるのは、無数の敵兵の無残な姿。
その中に点在する、四つ割菱が描かれた旗を差す者達の躯。
皆、俺の護衛を任された者達だと悟り、俺は馬を下りる。
「よう、守ってくれた」
俺は一人一人の前に屈み、呟きながらも手を合わせる。
そして実感する。俺はどれほど残酷な人間なのかを。
ただ盾になって貰う為だけに、十人の命を犠牲にしたこと。
俺はそれを酷いと、露とも思わない。いや、思えないのである。
そんな感情は、何処かに忘れてきてしまった。
死ぬべきだったのは、俺の方かもしれない。
「晴幸……様……」
その時、何処からか声がした。
その方を見ると、一人の男が足を引きずりながら草むらを出て、俺に語り掛ける。
俺は目を細め歩み寄り、傷だらけの身体を抱擁した。
「其方、名は何と申す」
「や……弥兵衛と……申します」
弥兵衛は涙を流しながら応え、俺は其の声に幾度と頷く。
生きていたかと、何度も呟きながら。
「約束通り、其方に褒美を授けよう。何か申して見よ」
「私を、晴幸様の家臣にして貰いとうございます……!」
そんなことで良いのかと、俺は彼の頭を撫でる。
「大儀であった、天晴であったぞ。弥兵衛、此方からも頼む。儂の家来になれ」
俺が此の身体に転生し、術を得た代償。
其れは、術を持たない人間さえも揃って持ち合わせた、普通の感情。
俺は此れからも、死への贖罪を忘れたまま生きてゆくのだろう。
ただ、その時に見せた弥兵衛の笑顔だけは、生涯忘れまいと堅く心に誓った。
「晴幸殿」
その時、陣の方向から走って来た男が、息を切らしながらも俺の前で膝をつく。
「申し上げます、
高遠頼継殿が先程、討ち死に致しました……」
歴史が、壊れる。
次回、終戦。




