第五十六話 矢島、猛追す
更新遅くなりました。
諏訪編、クライマックス突入です。
「……何を馬鹿な。寅王丸殿はまだ一つになられたばかり。
その様な赤子が、戦場に居る筈が無い」
「偽りだと思うならば、其れでも良い」
俺の口調に、高遠は反応を見せる。
「今や寅王丸では無く、千代宮丸と名を変えておる。
まあ其れ以前に武田を離れておった故、知らぬ事であろうが。
今頃、千代宮丸殿は我が殿に抱えられ、陣に座っておるであろうよ」
高遠は腹立たしさを感じ、問う。
「若し其れが誠だとして、何故晴信は連れて来たと申す?
もしや、気でも狂ったか」
彼に対し、少し考えれば分かるはずだと返す俺は、ふと天を見上げる。
風が葉を揺らし、かさかさと音を立てる。
雲一つない秋空に太陽が照り付け、まさしく陽気な秋日和と言わんばかりの絶好の気候であった。
其の許で、俺は呟く。
〈千代宮丸殿は、頼重殿の形見であられた〉と。
「形見……だと?」
その瞬間、高遠は気付く。
今戦における、〈千代宮丸の存在の偉大さ〉に。
気付き、硬直する。
「まて晴幸、その話、誠か?」
高遠は人が変わったように俺に訊ねる。
「先程からそう申しておるではないか。
千代宮丸殿は、殿の許におると」
高遠は不意に一歩退く。
家臣が如何したと訊ねると、彼は青ざめた顔色のまま語る。
「其の男を放してやれ」
そう言いつつ、彼は馬の手綱を取り、言った。
「此れより敵陣へと向かう!護衛に来れる者は付いて参れ!!」
「たっ、高遠殿!?」
彼は走り出す。
周りの者を引き離すかの如く、引き離されれば追いつけない程の速度で。
陣に残る男達は呆然としながらも、舌打ちながら縄を解く。
俺は忝いと立ち上がり、来た道、基い高遠の向かった方を振り返る。
どうにか、俺自身に降りかかる窮地は去った。
後は晴信達次第だと、俺はそう悟るのであった。
《武田家陣中》
「殿!!」
「武田晴信っ!!いざ覚悟せい!!」
振り下ろされた刃は音を立て、その動きを止める。
「……何をするつもりじゃ……」
矢島の奇襲は間一髪、板垣の刀によって防がれた。
刃先は晴信の指二本分前にまで迫る。
其の光景を見ていた康景は思わず声を挙げ、腰を抜かしてしまう。
しかし、当の晴信は表情を変えず、ただ矢島の目を見ていた。
「ふんっ!」
矢島は力ずくで刀を上方へ弾き、板垣の体制を後方へ崩す。
しかし、板垣は左足を下げ、耐える。
決して敵に背を向けようとはしない。睨み合う互いの信念がぶつかり合う。
刃のぶつかる金属音、鎧の擦れる軽快な音を立てながら、
二人は刀を構え、己の命を削り合う。
「と、殿!急ぎ御逃げを!!」
傍に仕える男は晴信に言うが、晴信は動かない。
その様子を見た矢島は好機だと、腰に構えた砂袋を投げつける。
突然の出来事に、板垣は思わず左手で防ぐ。
その隙に矢島は板垣の懐に入り込みつつ、彼を押し倒した。
「板垣様!!」
康景は板垣の窮地に立ち上がろうとするが、腰の抜けた身体に上手く力が入らない。
彼は恐怖による全身の震えを抑える事に、精一杯だった。
「矢島殿、後は任せよ」
次の瞬間、背後の草むらから現れた有賀が、晴信に向け刀を付きつける。
板垣は有賀の存在に気付き必死に晴信の名を叫ぶが、晴信は振り返ることなく言った。
「儂を斬ると申すか」
「其の問いに答える必要があるか?」
有賀は彼の肩に刃を置く。
しかし晴信は冷静に、己の抱える赤子に目をやる。
「この赤子が、頼重の子であると申してもか」
晴信の言葉に、矢島は反応する。
「……殿の御子だと……?」
有賀は驚きの表情を見せている。
晴信は未だ振り返ることなく語る。
「こやつを推戴し、諏訪の上に立たせる。さすれば、諏訪家は再び安泰じゃ。
このままでは其方等も浮かばれまいよ。
其方等は知らぬ事であろうが、現に、既に我らへ寝返った者もおる」
有賀は皺を寄せる。
話の筋は通っているように思えるが、果たしてこの男の事を信じても良いべきか?
いや、何方でも良い。結局はその赤子を奪い、晴信を討てば良い話だ。
「殿、千代宮丸殿を渡し、御逃げ下され!」
未だ馬乗りにされた矢島に苦戦する板垣。
其の姿を横目に、晴信は息を吐く。
「若し、其れでも儂を殺すと口にするならば……いや」
晴信は不敵な笑みを浮かべ、千代宮丸を抱える。
そのまま懐に忍ばせていた短刀を、首に突き付けた。
「若し儂を殺せば、こやつも道連れにしよう」




