第五十五話 決意と、命
多少改稿しました。(10/24)
〈数刻前〉
「此れより戦端を開く!」
虎胤の声に、第二陣は攻めを止めつつ、揃って横方向へと走る。
その時には既に、第三陣は敵を包囲しかけていた。
虎胤達が横陣を造り攻めたおかげで、後続の動きを悟られることが無かった為である。
鶴翼の陣形は、鳥が群れを成し飛行する形をまね、敵が両翼へと侵入した所を包囲し、殲滅させる策。此度はそれを応用させた策。
鶴翼の中心には名のある大将を配置するが、此度は甘利を配置。
いや、言ってしまえば、此度の策では大将すらも必要ない程、包囲に手間を取らせなかった。
「やるな、この功績、必ずや殿に御伝えしよう」
甘利は誇らしげに腕を組み、陣形の中心で仁王立ちを見せる。
目前で殲滅される光景は、爽快さまで覚えてしまう程であった。
そんな様子を、矢島は物陰に潜み垣間見る。
少々心が痛んだが、これも高遠の策の内だと割り切る。
そして足元に転がる死体の旗差を抜く。
旗に描かれて居るのは、武田の家紋。
それを眺めながら、彼は数日前の上原城での出来事を思い返す。
「軍師をこの手で刺した」
あの日、高遠は言った。
彼の表情から、後悔の念を見る。
矢島はそんな彼の言葉を、いつにも無く真剣な表情で聞く。
「儂が直々に、敵将を討って参ろう」
そんな矢島の声に、高遠は驚いた様な反応を見せる。
高遠は上原城の一件の後、武田は恐らく我等を赦すことは無いこと、近々戦となることを既に悟っていた。そして戦の為に集められる手勢はせいぜい四〇〇〇が良いところだと当人は見積もる。
故に、武田兵に紛れ、晴信を討つという考えは名案だと思われたが、その重要な役目を誰に任ずるかを迷っていた際に、矢島が声を挙げたのである。
「武田は恐らく我等を皆殺しにするつもりだ」
それでもやれるか。
高遠の問いに頷く矢島を信じた高遠は、強く念を押した。
「あいわかった。ただし努々(ゆめゆめ)死ぬでないぞ、必ず儂の許へ戻って来るのじゃ」
矢島は目を細める。
そう言えば当人が〈死ぬ覚悟〉であることを、其方に伝えぬままであったな。
まあ良い。そのままの方が、其方にとっても儂にとっても、幸せなことであろう。
矢島は旗差を背に差し、息を切らしながら、山道を一気に駆け抜けるのであった。
《武田勢陣中》
「殿、如何なさいましたか」
戦場の見下ろせる地に陣を立てた晴信は、眉間に皺を寄せている。
板垣は戦場を見渡すが、既に武田側が敵軍を包囲し終え、優勢な事には変わりない。
彼の中に、別の不安要素でもあるのだろうか。
「千代宮丸を渡せ」
突然言を発する晴信に、傍に控える男は抱えていた千代宮丸を手渡す。
何を始める気かと思ったが、板垣はあえて口には出さない。
「此処へ参って、ろくに食事も与えられておらぬな」
途端に頬を緩める晴信は、千代宮丸に小さな豆を与える。
その様を、板垣は呆然と眺めていた。
まさか豆を与える為に、皺を寄せておられた訳ではあるまいな……
一方で、何処からか草の音を聞きつけた康景は、ふと立ち上がる。
「誰か来ます」
「何?」
板垣が康景の目線の先を向くと、途端に男が陣へと駆け込み、倒れ込む。
味方か。板垣は彼の差す旗差を見て安堵する。晴幸も気配に気づき、如何したと訊ねた。
しかし、男は答えないまま晴信の方を向き、息を切らしながらゆっくりと立ち上がった。
「ほれ、如何したのじゃ」
板垣も同じように訊ねるが、男は無言を貫く。
何処か異質な雰囲気を感じ取った瞬間、板垣は目を見開く。
板垣の目の前で、男が腰刀を抜いた。
「殿!!」
「武田晴信っ!!いざ覚悟せい!!」
その言葉と共に矢島は走り出し、晴信に向け思い切り、刀を振り下ろすのだった。
《高遠勢陣中》
「矢島は巧くやっておるか」
「は、その様にございます」
刀ごと取り上げられ、身体ごと大木に縛られた俺は、高遠を睨む。
「矢島とやらが如何した」
俺の問いに、其方には関係ないとあしらわれる。俺はどうにか脱出を試みるも、想像以上に縄が固く、ろくに身動きすら取れない。
このままでは、晴信の身が危うい。どうにかそれだけでも伝えることは出来ないものかと辺りを見回すが、役立ちそうなものは無い。それに護衛は皆、道半ばで倒れてしまった。俺は徐々に焦りを見せる。
どうする?
俺は頭を巡らそうとするが、考えようとすればするほど、逆に分からなくなって行く。
それが俺を更に焦らすのである。
いわば、負の連鎖が此処で起きてしまうのだ。
「おや、晴幸殿。珍しいのぉ。
焦っておるのが見え見えじゃ」
「......!」
高遠はそんな俺を、横目に語る。
「じきに晴信は我が友に討たれる事であろう。
此度の戦、若し晴信を殺せた暁には、其方も共に殺してやる。
彼方の世で仲良うすると良い。故に其れまで、此処でじっとしておるがよいわ」
高遠の嗤いに、俺は歯を食いしばる。
少しずつ、己の中に怒りがこみ上げてくるのを感じる。
俺は拳をぐっと握った。
もはや、為す術はないと悟ったその瞬間、
突然、聞き覚えのある声が聞こえた。
「情けないのお、自ら敵の罠にはまるとは。
このような様では、儂の面目が丸つぶれじゃ」
その声の主は、晴幸自身。
潜り込んだ意識の中で、彼は問いかけている。
こんな時に嫌味かよ。俺は俯きながら、五月蝿いと心の中で呟く。
「全く、いつまでそうしておるつもりだ。
考えよ、まだ策は有る。
このままでは晴信が殺されてしまうぞ」
そんなこと百も承知だと、俺は苛立ちながら頭を巡らせる。
晴信の言う通りだ、まだ打開策はある。この場を切り抜け、かつ晴信を救う策。
しかし、仮に己がこの場を切り抜けたとて、恐らく晴信の救援には間に合わない。
ならば、自陣に居る誰かに頼るしかない。
そう思った時、光明が差した。
「......あ」
突如、己の脳裏にある男の姿が浮かぶ。
そうか、だから晴信はあの時
「漸く気付いたか」
本物の声に、俺は目を閉じる。
うっかり忘れかけていた。
此度の戦において、最も重要となる存在。
どうして直ぐに気づかなかった?
元から俺が救援に向かう必要など無かったというのに。
まだだ、まだ手はある。この機を逃してなるものか。
此の男を止める、究極の一手を此処で打つ。
「……のぉ、高遠。
其方に一つ、良き事を教えてやろう」
先程とは打って変わった声色に、高遠は不意に俺の方を見る。
俺が浮かべるのは、先程とは打って変わった、静かな笑み。
高遠に向けたのは、光の灯らぬ鋭い目。
高遠は硬直する。まるで《あの夜》に似た目だと。
「頼重の子が、今戦に来ておるぞ」
俺は、単調な口振りでそう語った。




