第五十一話 開戦、前日譚
話は前日へと遡る。
夕暮れ、俺が一人向かうのは人通りの少ない山道。
俺は山中を流れる川を見つけ、瓢箪に水を酌む。その際に水に浮かぶ紅葉を見つけ、顔を上げると、そこには大木が見事な赤色の葉を付けていた。
俺は目を細める。以前は毎年のように、紅葉を見に行ったものだ。
今年も変わらず綺麗に色づいている事だろう。俺は川の傍に座る。
川のせせらぎほど、心を落ち着かせてくれるものは無いと思う。
戦を前にして、少々気が抜けてしまいそうだ。
しかし、長く張り詰めた状態では、いずれ壊れてしまうことも知っていた。
俺はふうと白い息を吐く。煙が宙を舞い、消える。
その様はまるで、儚く脆い人の生を暗示しているかの様で、俺は急な寂しさに駆られる。
途端に、背後から俺の隣に座り込む男。俺は彼の方を見ず、驚くこともなかった。
「先日は済まなかった、お主にも苦しい思いをさせてしもうた」
隣で語る俺と瓜二つの男に、俺は答えない。
男も同じく目前の紅葉に目を移す。
「お主は、儂を恨んでおるのか?」
暫く経った後に、二人の間に続く沈黙を破ったのは、晴幸の方であった。
俺は内心答える他ないと悟る。
「恨んでなど居らぬ。御前だからでは無い、恐らく儂とてそうしていた筈だ。
ならば同じ道を辿って居たとしても、そうおかしなことではないだろう。
それに、傷口が思うより小さかったのは、御前が傷を貰い受けた御陰でもある。違うか?」
晴幸は応えることも、俺の顔を見る事も無かった。
こればかりは仕方なかったと、彼を庇う様な言葉をかけたのは、決して情けなどでは無い。
仮にその言葉が偽りだったとして、俺の心が読める晴幸には通用しないことは重々承知の上だ。
何処からか、日暮の鳴き声が聞こえる。
時は近い。俺は俯き、晴幸を見る。
「晴幸、御前に頼みが有る。今晩は儂の代わりに術を使い、高遠頼継の最期を見て貰いたい」
「珍しいな、高遠の身を案じているのか?」
「確信しているからじゃ。明日戦況が大きく動くとな」
記憶の片隅に残る、高遠と刀で語り合った日の事が脳裏に浮かび、俺は目を逸らす。
南部と同じで、高遠もあの時、常に苦しい思いをしていたに違いない。
だとしたら、苦しませてしまった要因は、間違いなく俺達にある。
「お主は、人が良すぎるな」
尖った声、しかし少し柔らかみを帯びた表情に、俺は苦笑する。
その通りかもしれない。ただ、それを一途に願う自分がいるのも、また事実。
「晴幸殿!」
男の声に現実へと引き戻された俺は、声の主を確認する。
「甘利殿、如何された」
甘利の必死の表情を見た晴幸は、相手の返答を待つ前に、悟る。
来たか
俺は直ぐ様陣を出て、高台から敵兵の侵攻を眺める。蟻ほどの小さな群れがぞろぞろと森から出ては、横陣の陣刑を作る。
見る限り、千を超えるだろうかというほどの小さな軍勢。
「くっ、これでは援軍が何処に潜んで居るか分からんではないか」
甘利の舌打ちを横目に、俺は片目を凝らす。その中に高遠らしき姿は無かった。
彼方も俺達の居場所は捉えて居る筈だ。無論我らの背後にも多くの兵を忍ばせている事も承知の上。つまり、出待ちされざるを得ないことを承知の上で、高遠は此処にやって来たのだ。
となると前線に出るのは危険が高い。此れ程開けた土地では、一度見つかれば逃れる事は難しい故である。
ならば、諏訪頼重の時と同じ、炙り出せれば良いというだけの話。
「儂には分かる。高遠の様な小大名の家臣は勿論の事、
如何様な相手であっても、この武田が負ける筈が無い」
此れ等全ては、晴幸の推測に過ぎない。しかし、彼は俺とは違う。
十年に渡り乱世を渡り歩いてきた彼の目は、決して偽りを映さない。
甘利ははっと笑い、俺の方を向く。
「其方ならば、一人の兵も無下にはせまいよ」
そう言って、俺の胸に拳を突き付ける。俺も同じく笑みを浮かべ、陣に向け叫んだ。
「先陣、此れより横陣の陣形を敷く」
「賭けに出るというか」
甘利は少々驚きの表情を見せ、目を細める。
此度の戦で俺が提案したのは、横陣の陣形を先陣に、それに続く第二陣以降は別の陣形を取り、あえて敵に後方の陣形を見せずに、兵の混乱を招くという戦法。うまくいけば敵兵を一掃できるが、下手をすれば晴信の首もが危うくなる策。
此れは、兵を無駄に死なせず、戦を早々に終結させる為の博打策。
法螺貝と陣太鼓の音、兵の怒号が戦場に轟く。
戦が始まる。俺は一度、唾を飲んだ。
「晴幸殿、其方は此処で待機せよ」
陣を出ようとする甘利の言葉に、俺は首を振る。
「否、儂も行こう」
そう口にする俺の目は、甘利を捉えていた。
武士としての血が、騒ぐ。
次回、開戦。




