第四十九話 奇人の、過去
こうして、武田と高遠、両軍の利害が一致してから五日が立つ。
天文十二年 九月十七日、躑躅ヶ崎館
緊迫状態が続く中、俺は此の日開かれる三度目の軍議に参加することになった。正味殆どの者が此処まで苦戦を強いられるとは思ってはいなかった(それは晴幸とて同じ)らしく、此度の軍議が最後になろうと意気込む者も多くいたが、晴信はそんな彼らを諫めるかの如く厳しい言葉を投げつける。
「小大名の家臣ごときに手間取っている暇は無い」と。
軍議は真昼に行われる様だが、其れまで半刻はある。俺は歩きながら、自身の腹に巻かれた包帯に触れる。
己が身に起きた災難と呼ぶべき出来事から、合わせれば既に一週間が経つ。依然相手の動向が掴めない状態が続いている。仮に相手が援軍を引き連れて居たとするなら、巧く〈誘導〉の策を取る事が最善だと思われた。
それにしても、あの出来事以来、本物の反応がない。
もしや、己の行動に負い目でも感じているのか?
「晴幸殿ではないか
聞いたぞ、此度の軍議には其方も出るそうだな」
城内で声を掛けられたと思えば、飯富虎昌が背後に立っていた。
杖を持ち、老人の様な歩き方で城内を徘徊する俺は、その様を見られ心底恥ずかしい思いにかられていた訳だが、平然な表情を保ったままその場を誤魔化そうとする。しかし、やはりそんな自分が何処か可笑しくなるというのが本音である。
一足先に誰も居ない広間へ足を運ぶ飯富は、息を吐き座る。俺も続く様にその横へ座った。
「まだしばし時があるな、ならば一つ、其方に昔話をしようではないか」
心地よい日差しと共に、冷たく乾いた風が吹き抜ける。
彼は物語る。それは俺が甲斐に向かう前年、自身が板垣や甘利と共に、晴信の父である武田信虎を駿河に追放した頃の事。
天文十年(一五四一年)、晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、信濃小県を首領とする海野棟綱ら滋野三家との戦に参加する。それには飯富や板垣、甘利も同じく従軍していた。俗に言う、『海野平合戦』である。
一ヶ月に及ぶ大戦の末、勝利した武田軍は歓喜に包まれる中、甲府へ帰還する。信虎殿の策が見事にはまった戦だった。
しかし、晴信だけは依然、眉間に皺を寄せたままである。飯富には其れが不思議で堪らなかったのだという。
「その際、儂は晴信の傍らで訊ねた。何故其れ程険しい顔を浮かべておられるのかと。
その時、殿が何と仰ったか分かるか?」
突然の飯富からの問いに少々困惑するが、奇想天外な男の考えなど誰にしも分かる筈がないと悟り、分からないと返答する。それを聞いた飯富からの答えは、至極驚くべきものだった。
「殿は恐ろし気な笑みを浮かべ、こう仰ったのだ。
『信虎は、思うほど大した男ではない』と」
かつてない大戦に勝利した、其れは紛れも無い事実だった。しかし晴信の目は目先の勝利でなく、その先の戦いを見据えていた。故に、目前の事象に浮かれている父親の姿に、真底失望したのだという。
帰還した僅か十日後、今川義元訪問の為に出立した信虎は、その最中に駿河へと追放される。現に帰還の翌日には、飯富達は駿河追放の提案を晴信から耳にしていたらしい。
やはり、晴信は奇人と言うべきか。父親を追放させたのは勿論の事、決断からの動きが異様に早い。第三の術を使い、その合戦で使われた武具の残留思念から当時の状況を視る事は可能だとしても、恐らく当時の晴信の心境までは読み取ることは出来ないだろう。何故なら晴信は、俺の術が通用しない只一人の人間だからだ。
心底不思議だ。話を聞く度に、彼の事をもっと知りたいと思う。それは人間の性か、武田晴信という人間にだけ湧き出てくる、特別な感情か。
俺は思わず笑みを零した。
其れは《異物》の見せる偽の感情ではなく、俺という人間の本物の感情である。
こうして始まる、三度目の軍議。俺は晴信の姿が、何処か今までと違うように見えた。否、晴信だけではない。飯富や甘利の姿も同じ。
理由は言わずとも分かる。俺の中で、彼らの認識が変化したからだ。
「殿、一つ御話したきことがございます」
開始直後、待っていたというかの如く、俺は真っ先に口を開く。晴信も百人程の中から俺の姿を探していたのか、目が合うと直ぐに目を細める。
「何だ、晴幸。申して見よ」
晴信は微笑む。俺は顎を引き、微笑み返し、高遠との一件の委細をゆっくりと語り始めた。
次回、第五十話




