第四十四話 強さと、優しさ
「と、寅王丸様をでございますか!?」
「いや、今は千代宮丸じゃ」
晴信の言う遺児。其れは諏訪頼重と武田晴信の妹である禰々の嫡子。
諏訪頼重の死後、禰々と寅王丸は諏訪領から甲斐へ帰国。千代宮丸という名は、その際に改名されたものだと伝えられている。
しかし、千代宮丸はまだ一歳にも満たぬ赤子。無論、反対意見が多数を占める。
そんな家臣に諭すように、晴信は持論を語るのである。
「禰々によれば、頼重が死した後、家中は混乱を招いて居る。
頼重の力は強大なものであった。故に残るものは家中の崩壊のみ。ならば、奴等の考えを動かすことなど容易じゃ」
「……まさか」
そう呟くのは、甲斐一日目の早朝から晴幸に城を案内した飯富虎昌。
そのまさかだと、真意に辿り着いたであろう彼に、晴信は微笑みかける。
「千代宮丸を推戴し、諏訪の統合を図るのじゃ」
推戴。つまり千代宮丸を諏訪の長として上に立てることを指す。家臣共は互いに顔を見合わせる。
晴信の語る策。聞く限り、なかなかの上策である様に思える。すがる手さえ無き者に訴えかける行為、その効果は恐らく絶大なもの。もし成功すれば、例え不利な状況であろうとも、戦の形勢を逆転させる事が可能だろう。しかし、其処にはやはり難題が付きまとう。
甘利虎泰は晴信の意見に反対し、臆することなく、晴信に其策の難点を突きつけた。
〈生後半年の子を戦場へ連れて行く事の危険さ。私の様に家臣の中にも、其の策に同意しかねている者もいること。そして何よりも、禰々様に其れを認めてもらえないという可能性。全てを考慮した上での策だというのならば、私はその策に乗る〉という旨を発言した甘利に、晴信は頬杖を突き思考する。
甘利の言う通り、千代宮丸は禰々の息子であり、晴信には何の関係も無い。戦の道具として使うつもりは毛頭ないが、もしその子に身の危険があれば、その責任は重く圧し掛かる。禰々に無理強いする事だけは避けたい。しかし、そう悠長にしている暇は無いのだ。
「儂が禰々に直々に話す。板垣、其方は半刻後には出立せよ。他の者も明日には出立する、支度を整えるのじゃ」
晴信はそう言い残し、その場を後にした。
軍議が終わる頃には、既に陽が東から昇り切っていた。
晴信は禰々に全てを語る。彼女は何も言うことなく、晴信の言葉を聞き、頷く。
「御兄様、私は信じております。皆の無事を、御家の無事を祈り待つ、それこそが女子の務めにございます。これも乱世を生きる者の所業だと、私は思っております」
「……誠に良いのか?」
「良くも悪しくも、そうせねば前には進めぬのでしょう」
禰々は反対するどころか、大らかに受け入れてくれた。また、彼女は晴信に、一滴の涙も見せることは無かった。
晴信は目を細め、彼女を抱擁する。突然の事に禰々は戸惑いを見せるが、晴信は決して離そうとはしなかった。
「すまない、誠にすまない。其方は強き女子だ。其方は儂の誇りだ。
必ず生きて帰る。儂も、千代宮丸も、我が家臣達も、一人たりとも失わせぬ。
故に、待っていてくれ」
涙を浮かべていたのは、寧ろ彼の方であった。禰々はそんな彼に気付き、微笑する。
晴信はかつて一度たりとも、人前で涙を見せる事は無かった。
晴信は腫らした目で、力強い眼差しを向ける。それは禰々が己が身に与えてくれた、決意の表れでもあった。
陽が傾き始める。
晴幸の傍に座る菊は、蜻蛉が未だ動かぬ彼の横に留まるのを見る。
「あら、蜻蛉」
菊はそう呟いて立ち上がる。
其の瞬間、何かに気付いたように晴幸に目線を移した。
「……気のせい?」
蜻蛉は再び、秋空へと飛び立つ。
一瞬だけ、晴幸の指が動いた気がした。
次回、出陣




